晴佐久昌英神父説教
2007年1月1日
神の母聖マリア(C)
福音朗読
ルカ2:16‐21
< わたしたちの助けなしには >
新年、あけましておめでとうございます。
わたしたち、共に新年を迎えることができました。これはすべて神のわざであります。当たり前のことです。では、なぜ神はわたしたちに新しい年を迎えさせたのかといえば、新しい年もまた、わたしたちを通してご自分のみこころを行いたいからであります。だから、人はなおも生きて新しい年を迎えることができる。当たり前のことです。この当たり前のことを、この一年、本当に大切にしながら生きてまいりましょう。神さまがこのわたしにすばらしいわざをなしておられるという事実に、目を開いてください。今までの人生を改めて振り返って、「ああ、ここまでしてくださったんだ。そして今日を迎えたんだ」と感謝と喜びにあふれ、この新しい年、この1月1日が現実に存在することに、驚きと感動を持つ。それが、神のみこころを知るということです。
新しいカレンダーをめくりましたか。2007年1月1日という日が、キラキラ輝いてわたしたちに与えられました。それは何のためか、ということです。
「100年カレンダー」ってご存知ですか。一年分が一行、それが百行で百年、一枚のカレンダーに小さな活字で今後100年分が収まっているものです。実際にあったことだそうですけど、ある人がこれをじっと見ているうちに、このどこかの日で自分は死ぬんだって気付いたとたん、ものすごく暗い気持ちになり、精神的に不安定になってしまったと。確かにその人の思ったとおり、それが何年何月何日かはともかく、その日はやってくるでしょう。カレンダーでそれを視覚的に、リアルに感じてしまった、そのショックはわかります。
しかし、よーく考えてみてください。もしも神がお望みにならなかったら、そもそもわたしはその100年カレンダーのどこにもいない。この自分が今実際に存在して、カレンダーの今日に丸を付けられることだけでも、これはとてつもない恵みなのです。神は、この世界を実際に創造なさいました。その創造のわざが、このわたし自身なのだという感動とか驚き、そうです、驚きが必要です。この宇宙の真ん中にこの一つの美しい星があって、その上にこのわたしという一人の人格が存在する。そうして、たかが人間の決めた数字ではありますけれども、2007年1月1日というこの日に、そのわたしが確かにここに輝いているというこの現実に、私たちは驚くべきです。たとえ1月2日を迎えられなかったとしても、それが何だというのでしょうか。「明日を思いわずらうな」と言うイエスは、今日を生きるわたしたちに何を言いたかったか。
今日というこの一日、新しい年、新しい日が現実に存在していることへの感動、驚きを新たにしたい。そして、神がそれと同時に与えてくださった使命にまっすぐに答えようという思いを新たにしたい。2007年を、そんな新鮮な思いでキラキラと輝いた年にいたしましょう。今日という日、それは神さまが与えてくださった、最高の恵みなのです。
新年にあたり、教皇ベネディクト16世が「2007年『世界平和の日』メッセージ」を出しました。印刷したものを用意しましたから、是非みなさん一部ずつお持ちになってください。「平和の中心である人間の人格」というタイトルのメッセージですが、ついさっきそれを読んでいて、とても感動しました。
「わたしは確信しています。人格の尊重が平和を促進することを」。教皇はそう言って、平和の基本に、人間の人格を据えています。神から与えられた人格、これほど尊いものはありません。「一人ひとりの人間は、神にかたどって創造されたがゆえに、人格としての尊厳を備えています。単なる物ではなく、人格です。自分を知り、自分を自由に与え、他者と交わり、同時に自分だけの信仰と愛で神に応答するよう招かれている」のです。
この尊い人格を本当に大切にすることが、平和の基礎です。他者の人格を大切にする、そのためにもまずは自分の人格を大切にしなければならない。なぜなら、その自分の人格、この世でたった一つのこの人格によって、他者を救うことが出来るからです。正確に言えば、このわたしの人格を用いて、神が人を救うことができるからです。すごいことですよね。こんなわたしという人間が、人を救うことができるのです。でも実は、そのためにこそわたくしたちは生まれてきたのであり、そのためにこそ世界が創られた。それに気づいて、実際に人を救う、そんな新しい年にしましょう。
神さまが何故この世界を創造なさったのか。それは、実際に誰かを助けたとき、救ったときにわかります。ああ、世界はこのために、わたしはこのために存在していたのだと。どんな小さなことでもいい、誰かを救うお手伝いをすることなしに、わたしが何故存在しているのかなんて決してわからないと思う。どんなに小さな平和、小さな喜び、小さな癒しでもいい、それをこの世に実現したときにのみ、「ああ、私が生きているってこういうことだ」と、ようやくわかる。世界はそういう仕組みに作られているのです。
第二朗読で、パウロが素晴らしいことを言ってました。「あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです」。すごいでしょ、天の父の相続人ですよ。何を相続しているかといえば、それは神の国であり、神の国の完成のために神の愛で人を救うという神のわざでしょう。神のわざを相続したら、それはもう無限の力と可能性があるわけですから、何でもできる。もうこれで終わり、ということがない。もう許せんとか、もうやり直せないとか、そういう人間わざとは決定的に違う。神は創造するお方だから、もう一度結び合わせるし、新たに建てなおすし、常にわたしたちを集めて、現実に神の国を創っていく。わたしたちはそんな究極の力と使命を相続しているのであって、だから、「神の子」と呼ばれるのです。この新しい一年の間に、ひとつもそんな創造のわざに参与しなかったなら、神があなたに2007年を与えた意味が全くないということです。
皆さん、新年を迎えた驚きと感動のうちに、平和の中心である人間の人格を取り戻しましょう。教皇が、創世記を引用していました。「神はご自分にかたどって人を創造された」。だからわたしたちは自由だし、愛し合う事が出来るし、新しい世界を創りだすことができるのです。教皇は、アウグスティヌスの言葉も引用していました。「神はわたしたちの助けなしにわたしたちを創造しました。けれども神は、わたしたちの助けなしには、わたしたちを救うことを望みませんでした」。なるほど、人間ってそういうことなんですよね。神は、誰の協力もなしにこの世界を創りました。ただただ、愛して、愛を注いで。親が子どもを産むっていうのはそういうことです。でもじゃあ、それは何のためかといえば、その一人の子どもの協力によって、他の子どもたちが救われるためだと。
わたしたちは、神に協力するために生まれてきたし、生きている。さっき答唱詩編で歌ったとおりです。「神のみ旨を行うことは、わたしの心のよろこび」。さっきこの答唱詩編を歌いながら、本当に神のみ旨を行う一年にしていかないと、とつくづく思いました。去年一年、色々と皆さんあったでしょうけれども、実はその起ったすべてのことは、今年一年、神のみわざに協力するためであった、だからそれはわたしの心のよろこびだと、ぼくはそう信じます。わたしは今日、神に召されずに2007年を迎えたわけですが、それはすごいことです。神が今年、わたしの人格によって世を救おうとなさっておられるということなのですから。生きて2007年を迎えたからには、生きて2007年を迎えられなかった人には出来なかったことをするべきです。
先程、ひとりの神学生が「今年は挑戦の年にするぞ」と、息巻いておりましたが、ああそうですか、どうぞ挑戦してください。(笑)でも、挑戦って、実際にはものすごく大変なことであるはずです。だって、自分にできそうなことをやっても挑戦って言わないですから。「これは自分には無理なんじゃないか」ってことをやるから「挑戦」になる。でも、どんなに大変でも、ぜひ挑戦していただきたい。神のみこころを行うために。その挑戦が、自分の誉れのためとか、この世での業績のためとかならば、大した挑戦ではない。やればできそうじゃないですか、そんなことなら。やっぱり「挑戦」って言うんだったら、神のみ旨を行う挑戦をしてほしい。それはすごい挑戦ですよ、できそうもない挑戦だから。ぼくらは常に自分勝手な思いとか、恐れとか、人を滅ぼそうとする悪霊の挑戦を受けている。それに打ち勝って、なおも希望を語り、信仰を伝えて人を救うこと、それはすごい挑戦です。しかし、どんなに大変でも、それが神の創造のわざに参与する挑戦ならば、決して負けることのない挑戦になるはずです。
さあ、今年、どんな挑戦ができるのか、ワクワクいたします。準備はもう整っています。ここに信仰はあるし、教会の家族はちゃんといるし、こうしてミサ聖祭は今日も行われている。あとはわたしたちの心に、新しい自分を始めよう、新しい神のわざを実現させようという新しい希望があれば、必ず神が働きます。そうして私たちは今年、キリストの救いのわざを実現するのです。新年にこうして、みんなで新しいわざを始めようと説教をして、それが皆さんの心に届くならば、この一年、どれほど多くの救いを作り出すでしょうか。どれほど多くのよろこびを生み出すでしょうか。ワクワクしませんか。
共に福音宣言をしてまいりましょう。昨日訪ねてきたプロテスタントの神学生が、「わたしも福音宣言をしたいと思って、学びに来ました」と言いましたよ。そして、「今、自分の教会の教会学校でも、子供たちに勇気を持って福音宣言をしてるんです!」と目を輝かせていました。きっと、いい牧師になるでしょう。神のわざに参与しているのですから。苦しんでいる子供たちに、一人の人格として誠実に関わり、信仰を持ってはっきりと「大丈夫だよ、君は神様に愛されてる」と宣言する。きっと、たくさんの笑顔を生み出していることでしょう。
カトリック高円寺教会の皆さん、今年一年、神さまのみこころを行いましょう。福音を宣言し、苦しむ人に手を差し伸べ、争いの現場に許しと和解をもたらしましょう。絶望の現場に新しい希望を、本当に助けを必要としている一人ひとりに救いのよろこびをもたらしましょう。自分には出来そうもないと思ったときにこそ、挑戦していただきたい。神さまがこの新しい年を祝福してくださいますように。「幼子はイエスと名づけられた」と読まれました。この名は、"神は救う"という意味です。神の救いが、新しい年に宿りました。
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