晴佐久昌英神父説教
2007年1月7日
主の公現(C)
福音朗読
マタイ2:1−12

<わたしをどうぞお使いください>
  成人式の祝福ミサに、大勢の新成人が集ってくれました。成人、おめでとうございます。晴れ着の方々の中には、私が15年前に一時期この教会にいたころ幼稚園生だった顔も並んでますね。あれから15年。立派になりましたねえ。5歳から20歳の15年。人が一番変わる時、成長する時です。皆さんの中でも何かが変わっているはず。大きく成長しているはずです。
幼稚園生の時は甘えていました。自分のことだけ考えていた。当たり前ですし、それでいい。しかし、15年経って二十歳になった今、まだ自分のことだけを考えているのでは、果たしてこの15年はなんだったんだろうってことになる。後ろの方でお母さんたちが、成人したわが子を、すこし晴れがましく、しかし相当不安そうに見つめておりますけども、その思いはひとつでしょう。「成長してほしい」。でも、じゃあ成長とは何か。とりわけ、キリスト者にとって、成長するとはどういうことか。

 3人の博士がイエスの所にやってきます。占星術の学者たちですけども、東の方、すなわちユダヤから見れば遠い辺境の地から、救い主のもとへ救いを求めてやってきた。言うなれば諸国の代表として神に呼び集められた人たちです。この出来事が何を表しているかというと、イエスの誕生によって、人類が新しい段階に入ったことをあらわしているのです。
それまでユダヤ人は、自分たちだけが特別に選ばれて救われ、神の恵みを受けるのだと信じていました。いわゆる旧約時代ですね。しかし、イエスの誕生によって、すべての国の人、およそこの地上に生まれた神の子ならばだれでも、神の救いに与ることになった。いわゆる新約時代が始まったのです。イエスの誕生とはそういう喜びであり、恵みです。人類が、「自分だけ」から「すべての人のため」へと変えられていく。これは、ぼくに言わせれば成長だと思う。
 旧約時代という、15年どころか1500年を超える長い年月、神は人類を導き育て、ついにイエスという完全なる神の子をもたらして、新たな段階である新約時代をお始めになった。つまり、人類は成人式を迎えたのです。一人前になったということです。それまで自分のことだけ考えていた人類の中に、すべての人の救いを願い、奉仕するチーム、すなわち「キリストの教会」が誕生した。これは、成長です。以降、キリストの教会は、すべての人が神の子としての喜びを生きるために仕える神の民として出発しました。ですから、三人の占星術の学者たちが遠い国からやってきてイエスにひれ伏したというこの出来事は、新約時代の曙を現しているのです。
 旧約時代は、まだ子どもだった。だから自分のことだけ考えていた。しかし新約の神の民は、大人として、すべての人のことを考え、奉仕する。成長ってそういうことでしょう。単に才能や身長が伸びることじゃない。どこまで伸びたって、自分のために伸びてるなら、同じことですから。むしろ、そんな風に自分が王になる人生から抜け出して、本当の王を求めて旅に出て、すべての人に仕える本物の王に出会ってひれ伏すことを、成長という。
 私たちは人生のどこかで、決定的にそのように成長するときを迎え、神のみ心を生き始めなければなりません。二十歳は、そのすばらしいチャンスの時。この2007年を、そのような成長の時にしましょう。決定的に新たな段階へ入る、決断のときに。自分の救いのことだけを考える生き方から、みんなの救いを願い、奉仕する生き方を始める年に。

 昨日、私が昔作った神学院祭のポスターがたまたま実家から出てきたのを、みんなに見てもらいました。神学校時代、神学院祭という学園祭があって、お祭り好きの私は毎年燃えてました。特に、ポスター作りに燃えた。全部刷るのにひと月以上かかる、シルクスクリーンという手刷りのポスターです。デザインから印刷まで全部自分でやって、芸術作品のようなポスターを毎年毎年、精魂込めて作ってました。院長から、「君は神学院祭をやりに来たのかね」とか「進む道を間違えたんじゃないの?」などとイヤミを言われながら。きれいですよ。一度展覧会しましょうか。神学校に入る前は美術学校でしたから、それなりな才能もあったわけで、そこそこの物は作るわけです。成人前のころは、これで生きて行くのかなあと、なんとなく思っていました。デザイン業界か、出版編集方面か、イベント系か。自分の才能をどう生かすべきかとか、十代の間はあれこれ考えていましたし、人並みに真剣に悩んだり憧れたりしていた。
けれども私は、成人した二十歳の時に、神学校に入ろうと決心した。今でも、そのころの気持ちを思い出すことができます。ぼくは、このまま自分の才能を伸ばし、それを自分のために使って生きて行っても、ひとつも嬉しくないということを本能的に悟ったのです。もちろん、自分の才能を伸ばすのは素晴らしいことです。与えられた才能を伸ばして自分の満足とし、他者からも評価され、それに見合った対価を得て生きて行く。悪いことではない。
しかしぼくは、それは自分にとって真の喜びではないと悟ってしまったのです。自分の満足を実現させることではなく、自分を通して、つまり自分の才能も弱さも、与えられたすべてを通して、神が働くことこそが何よりの喜びだと。自分のすべてを通して神が働き、それによってもう一人のだれかが喜んでくれるならばそれに勝る喜びはない、と。そう信じて、神学校に入りました。
 ある人が私の母に、「息子さんが神父になってよかったですね」と言ったとき、母は、「あの子は神父にならなかったら、風船のようにどこか遠い空の果てに飛んで行ってしまったでしょう」と答えたそうです。遠い空の果てに飛んで行ってしまう風船。なんか、孤独ですねえ。やがてしぼんで、どこかに落ちる。
おっしゃるとおり。神父になってなかったら、むなしく浮遊していたでしょう。つまり、ぼくはたぶん、つながっていたかったんだと思う。本物と。自分の才能や欲望ばかりを膨らませ、自由だけど目的もない浮遊する人生に耐えられなかったんだと思う。ぼくは、本物につながりたかった。自分のためではなく、誰かのため、神のためにこそ働きたかった。そうすれば、一生、何をしていても満足できると。二十歳のあのころ、ぼくは成長したんだと思う。

お正月に、当教会出身の神学生が二人帰郷しましたけれど、二人とも東京に帰ってきて同じこと言うので、面白かった。どちらもちょうど大学を出たくらいの歳なわけですが、ふるさとで友だちに会うわけですよね。同級生に。で、ひとりの神学生が言うには、みんな同じことを言ってたと。「自分は何に向いているのか分からない。自分にどんな才能があるか分からない。自分が何が好きで、何をやって行けばいいか、分からない」と。そして、「お前は自分の道を決めていいなあ」と言われたそうです。もう一人の神学生も、ふるさとでみんなに言われたと。「お前はいいなあ、自分が信じる道を歩き始めていて。羨ましいよ」と。まあ、今の二十歳前後は、みんなそうでしょう。「自分の好きなことが見つからない」なんて言う。でもこれ、どこまで探しても幸せになれないと思う。たとえ見つけても、幸せになれないと思う。なぜなら、見つけたそれは、「その人が好きなこと」なんであって、神の御心ではないから。神学校は違う。みんなが好きなことのために働く。私が好きなことじゃなくて。
三人の博士たちがイエス様のところに来てひれ伏しました。この占星術の学者たち、きっと道を求め真理を求め、宇宙の神秘を解き明かそうとしていたんでしょう。生きる意味は何かとか、永遠なる救いとは何かとか、探していたんでしょう。そこに星が現れる。真理の星。喜びに溢れてその星を目指し、そして救い主に出会う。博士たちはひれ伏します。自分たちが今までやってきたこと、積み重ねてきたこと、そんなことはどこかに全部吹っ飛んで、あるいはそれらは今日のためにあったと理解して、ひれ伏します。ぼくも色々やってきたけど、結局、何かにひれ伏したかったのです。いい加減なものではない、本物に。すべての人を救う真理に。頭を下げてひれ伏したかった。それが神学校に飛び込んだ一番の動機だと思う。

福音書には、ひれ伏す博士とは対照的な人が出てきました。王様です。ヘロデ王。自分を脅かす存在を抹殺しようと計画します。ヘロデ王は歴史に残る残虐な王ですけれども、救い主が生まれたんじゃないかという情報を聞いたときに、非常に不安になりました。自分を守る者の、根源的不安。そこで、博士たちにこう言います。「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」。これは嘘です。兵を送って殺そうと思っていたわけですから。
この、「詳しく調べて知らせてくれ」というのは、ヘロデ王の支配欲です。すべてを自分のために利用しようとしている。全く逆でしょ、自分をすべての人のために捧げるイエスと。情報を集め、自分のために利用し、自分の完成を目指す。ヘロデ王は、博士たちが報告せずに帰ったと知って怒り狂い、その周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、ひとり残らず殺させます。
私たちの心の内に、ヘロデ王がいます。自分の力を自分のためだけに使うこと。あらゆる情報を自分の利益のために集めて、自分を守ろうとすること。そんな幼稚な王の時代を終え、まことの王にひれ伏す成長の旅を始めましょう。人は、何にひれ伏すかで人生のすべてが決まります。
成人を迎えた皆さん、さわやかに、真心こめて、天の父にひれ伏してください。「私をどうぞお使いください」とその身を奉げる時、大きな喜びを知ります。自分が生きているということはこれほどに尊くすばらしいことかと、「使われたとき」に初めてわかるのです。
2007年を、成長の年、決断の年、出発の年としましょう。洗礼のことでも、召命のことでも。神様は私たちを招いておられます。「ひれ伏す」という、この世で最も美しい奉げ物を、お奉げしましょう。新しい年、希望の星はもう輝いています。わたしたちはそれを見たからこそ、喜びにあふれ、こうして救い主を拝んでいるのです。
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