晴佐久昌英神父説教
2007年1月14日
年間第2主日(C)
福音朗読
ヨハネ 2:1−11

<素晴らしいもの>
 今、わたしは大変ドキドキしております。先日、高円寺教会出身で東京教区の面接に合格した神学生が、ちょうど今、東京カトリック神学院の試験中なんです。教区の面接は通っても、神学校の面接と試験に合格しなければ本当の意味での神学生になれません。神学校の試験って、驚くなかれ3泊4日もあるんですよ。で、今日が最終日。ああ、もう、ドキドキ。(笑)よく、受験生の親がまるで自分が受験しているかのように緊張しているのを見て、親ばかだねえ、なんて笑ってたんですけど、もう人のこと言えません。この4日間、ずーっと気になって。ちゃんといい子にしてるかなあ、面接でバカなこといってないかなあ、と。
 ただ、これが普通の大学の受験だったら、「他の大学でもいいじゃないか」とか、「別に命取られるわけじゃないし」とか言えますけど、司祭召命っていうやつは、「命を召す」という文字通りで、実際、命がかかってるわけですよ。人生のすべてが。本人は命より大事な信仰をかけているわけですし、その彼によって魂救われるという大勢の人、大勢の命が彼を待っているわけです。もう、ただただ、「神よ、あなたのみわざを行ってください。みこころならば、この一人の召命によって、あなたの栄光を現してください」と、そう祈るばかり。
 もちろん、すべてのキリスト者が、そのような神の栄光の現れとなる「洗礼の秘蹟の召命」を持っているわけですけども、やっぱり「叙階の秘蹟の召命」は特別です。その影響力、その聖性。そして何より、ぼく自身がその秘蹟を生きるものとして、この一年はその召命を彼と全面的に分かち合ってきましたし、ある意味わが子のように育ててきたわけですから、なにかぼく自身も問われているような気持ちがあって、ほんとにドキドキ。まあ、子を持たぬ司祭としては、こうして少しでも親心を知ることができて良かったっていうことでしょうか。
 同じく高円寺出身で去年入学した神学生は、去年の入試で「秘蹟とは何か書きなさい」という問題が出て、どう書いていいか分からず、たった一行「素晴らしいもの」って書いた。(笑)それでも合格したんだから、まさに神のみむねということでしょう。でも、いいじゃないですか、「素晴らしいもの」。まさにそうですよ。むしろ、神さまって、そういう個性、その人だけのセンスを大切に使うんじゃないかな。だから、今年の彼も今頃一体どんなことを書いちゃってるんだろうって、正直ドキドキしますけど、神が働くならば何でも可能だし、そんな神の働きを受け入れる信仰にこそ、神が働くんじゃないでしょうか。
 わが召命塾生たちにも、そういう信仰だけを教えてるんです。「秘蹟とは何か」という問題が出たらこう答えろとか、いくらそんなこと教えたって、それは司祭職を生きるために本質的な役には立たない。知識は神学校行ってからでもいくらでも勉強できますし、どのみち勉強は生涯続けなければなりません。一番大事なことは、自分が働くんじゃない、神が働くんだ、神が自分に働くならばみわざが実現するんだ、という信仰です。「だから、あなたそのものが、神の栄光の現れる現場になってほしい」と、教えています。それを信じられなかったら、人間的にどんなに上手に話したり賢く答えたりしたところで、神の役には立たない。今試験中の彼も、「こんな自分だけれども、神がお使いになるならすべてうまくいく」とまっすぐに信じて、この道を歩んでくれると信じてます。
 ぼくのときは一週間だったんですよ、神学校の試験。で、途中で遠足なんて日まであるんです。ぼくは能天気に、「わーい、息抜きだー」なんて喜んで、遠足は鎌倉だったんですけど、浜辺走って石ころ投げたりしてた。ところが、ふと気づくと、付き添いの面接官がそれをじーっと観察してる。(笑)怖いですねえ。そういう試験だったんでしょうかね、あれ。結局、筆記は全くできないし、ぼくはそのときは落ちたと思った。英語の試験とかもあって、もう全然ダメでしたから。そうだよな、調子に乗って飛び込んでみたけど、結局現実は厳しいというか、こんな未熟で半端なぼくなんかはお呼びじゃないんだって、とことん思い知ったんです。一緒に試験を受けた頭脳明晰な仲間たちとか、真剣に祈っている雲の上のような先輩神学生たちの姿とか、そんなの見て、「ああもう、失礼しました、どうもお邪魔しました」っていう、ほんとにそういう気持ちだった。
 だから、最終日に「合格」って貼り出されたとき、ぼく自身が一番びっくりしましたし、その足で大聖堂に駆け込んで、涙こぼして祈った。「主よ、あなたがお望みなら、何でもします。ほんとにあなたがお望みならば、その望みに応えます、すべて捧げます」と。自分が働くのではない、という召命の出発点です。

 洗礼を準備している皆さん。皆さん、何かしるしを見たがりますけど、神さまが、「あなた自身」というしるしを与えてくださっていることに気づいてほしい。神が選んでくださった、そんな自分自身にこそ誇りを持ち、感謝し、神が自分を通して働くのだという信仰を育ててほしい。
 ガリラヤのカナで婚礼があり、そこでイエスが水をぶどう酒に変えたという、「最初の奇跡」を読みました。奇跡と言っても、それは見る人によっては「上手な手品」にしか過ぎないわけで、大切なことは、それを神の働きと信じることです。見ても見えない人には全然意味がないわけですし。現にこの世話役はこれが奇跡だなんて思ってない。「ああ、いいぶどう酒ですね」って、それだけです。しかし、聖書には「それで、弟子たちはイエスを信じた」とある。つまりこれ、イエスは弟子たちを教育してるんですね。弟子たちをそばに置いて、ご自分に、そして弟子も含めた自分たちに、神が働いていること、神の栄光が現れていることを見せて信じさせる。皆さん自身にも、信じる者のみに現れる栄光が、すでに宿っているはずです。ぼくは、神学校に合格したとき何よりもまず思ったのは、これこそ奇跡だという思いであり、神が選んでくれたという確信です。自分が受け入れられたということが何よりのしるしだと信じたのです。それによって、心の奥深くの根深い自信の無さをも克服出来たのです。これが、たとえ神学校に受かったとしても、それはたまたまだろうとか、ほんとは神は望んでいないのかも、なんて疑ってたら、しるしにならないじゃないですか。
 ぼくは、今までも人生の中でいくつもしるしを見せてもらったし、それを神からのしるしだと信じることが、今のこのぼくを作ってきました。悩む現場でそのつど、これは神さまがなさってることだから完全だ、絶対だ、と信じてきた。たとえ奇跡のようなしるしが山のように起こっても、それをしるしとして受け入れなかったら、全く無駄ということです。先ほどパウロが言ってました。あらゆる人にそれぞれの働き、それぞれの恵みが与えられていて、それが全体の益となると。「あらゆる人」です。神がひいきすると思いますか? どんなにわたしは自信がない、わたしは恵まれなかった、才能もないとあなたが言っても、神はそのあなたに、あなただけの力と、あなただけのしるしを与えて、あなたを用いているのです。もしもぼくが何か神さまの役に立っているとするならば、それは自分に与えられたしるしを全面的に信じる信仰ゆえです。しるしを受け止める力。それは人生を変えていきます。あらゆる試練の時にその人を支えます。

 教会から離れないでください。教会はまさにしるしそのものだからです。特に洗礼を受ける準備をしている人、あなたに実現しようとしているこの秘蹟こそが、何よりのしるしだと気づいて欲しい。神が選んで、神が愛して、神の霊が宿るという恩寵。キリストと共に死に、キリストと共に生きるものとなる、これ以上はない恵みが、あなたの人生に実現するのです。「ああ、この洗礼という恵みのしるしさえあれば、もう後は大丈夫だ」と安心してください。秘蹟は神の教育です。それに与ることがその人を生かすし、新たなしるしへの希望を生みだす。
 去年、秘蹟を「素晴らしいもの」と答えた、その神学生のお父さんが、このたび洗礼を受けることになりました。やっぱり感動しますよね、そういう神の働き。父親にしてみれば、息子がたいした目的もなく東京に行くなんて言って家を出て行っちゃったわけで、きっと心配したでしょうね。でも、その息子は縁あってこの教会に熱心に通うようになり、そしてあろうことか、あろうことかっていうのもなんですけど(笑)、神父になりたいなんて言い出す。親としては当然、バカ言うな、お前なんかが神父になれるはずがない、と思うでしょう。「おまえが神父になったりしたら、教会が滅ぶ」とか、そういうことを親は言うわけです。
 ところが、実際に合格し、一人の神学生として一年の修行を終えた息子を現実に見ると、そこはさすがに親ですから、自分の息子に何が起こっているのかが、誰よりもはっきり分かるわけです。「これは、神の働きだ」、と。神の愛の力が現実の息子に目に見える形でちゃんと現れているのが、わかる。ちなみに、そういう神の愛の目に見えるしるしの極みを「秘蹟」って言うのです。神学生は覚えておいてくださいね。神の栄光、神の愛に、現実に触れることができるしるし。なんて素晴らしいことでしょう。そんなしるしがあったら、それを抱きしめて生きていけるじゃないですか。叙階の秘蹟に向かって歩き出している息子。その息子を見て、自分も洗礼の秘蹟を受けたいと望む父。これは、神の働きでしょ? 当然、その父親の洗礼がまた、美しいしるしになるんじゃないですか? 
 教会というしるし、それはもうこの世界に実現しているし、わたしたちはそのしるしを目の前で見ております。洗礼というしるし、それはもうこの世にちゃんと実現しておりますし、あなたはそれを受けています。これ以上のしるしはもはや必要ありません。神さまはちゃんとしるしを見せてくださいました。わたしたちを愛しているからです。水がぶどう酒に変わるどころじゃない、あらゆる闇を光に変える、圧倒的なしるしを私たちはもう見ております。すべてのしるしは、あのイエス・キリストという出来事につながっています。そして、イエス・キリスト以上のしるしはありえません。
 今日の午後、わたしの母の納骨式が行われます。母の死から今日までの間、たくさんのしるしを見せてもらいました。この、今日までのふた月を、わたしは生涯忘れずに、神さまが見せてくださった本当に美しいしるしとして大切にしていきます。信仰がない人には、それはただの悲しい出来事であり、ただの辛い体験ですけれども、信じる者には、母の苦しみと死、子の悲しみと信頼、そのすべてが神の愛の目に見えるしるしになるのです。十字架が、神の栄光の現れになる。これをわたしたちは「秘蹟」と呼んで、信じているのです。

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