晴佐久昌英神父説教
2007年1月21日
年間第3主日(C)
福音朗読
ルカ1:1‐4、4:14‐21

<この聖書の言葉は、今日>
 ルカの福音書によるイエスの活動開始の場面を読みましたが、わたしはいつもこの記事に励まされます。特にミサでこの箇所が読まれるときが、うれしい。イエスのこの宣言が、そのまま今日のミサに響き渡るのを感じるからです。
イエスは会堂で聖書を朗読し、それを係の者に返した後、すべての人の目が注がれている中で宣言します。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」。そう宣言する箇所をこうしてミサで朗読するとき、まったく同じ神のわざが実現しています。そうしてミサの朗読の後、みんなの目が注がれている中で説教を始めるわけですから、わたしが言うべきことはたったひとつでしょう。「今朗読したこの聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」。わたしは当然、そう宣言します。「主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」。
 この救いのみ言葉が、確かに日本語で皆さんの耳に届くこの時、それは現実となっています。友だちの言葉も、医者の言葉も、教師の言葉も、それぞれに大事ですけれども、やっぱりこうして朗読台から語られる福音、そしてそれが真実であるという宣言としての説教、この言葉は何にも増して尊い言葉だとわかっていただきたいのです。聖書の宣言は真実です。わたしたちは、この宣言を聴くために生きてきたし、この宣言に支えられて、これからも生きていける。
 「晴佐久神父は説教の準備をしないそうですが、本当ですか」とよく聞かれます。お答えするならば、それは、本当です。(笑) 福音書自体が「あなたは救われた」という福音宣言ですから、それが読まれたあとでするべきことは、「この聖書の言葉は、今、実現している。安心してください」と励ますこと以外の何物でもありません。そんな「今、ここで」の福音を、実際にみんなの目が注がれている中で語り始めると、その時その時の思いがあふれてきてしまうので、たとえ準備していても意味がないのです。
 もっとも、その一週間の間、司祭はたくさんの人に出会い、たくさんの福音宣言の実りを体験しているわけで、そのたびに「次の主日には、この感動をみんなと分かち合いたい」と思っているという意味では、一週間ずっと説教の準備をしているようなものですけど。そんな一週間のあと、主日に仲間が集まり、そこで福音書を朗読すれば、もう、思いはひとつです。「昨日はこんな素晴らしいことがあった。一昨日もあんなすごい出会いがあった。すべて神の恵みであり、救いの出来事だった。そして今日、この福音が読まれる。ああ、イエスの言葉は本当だ。聖霊は働いている。教会は生きている。信じて、また一週間、励まし合ってやっていこう。神は共におられる」。それ以外何を語ればいいのか、わたしには分かりません。
 そういえばさっきの福音書でも、イエスが聖書を朗読しようとして立ったらたまたまイザヤ書が渡され、開いたらこの箇所が目に留まったのでそこを読んで、話し始めたとあった。ほら、イエスも準備してないじゃないですか。(笑)「今日、耳にしたとき」、これが大事なんです。神の言葉は生きているんです。皆さんも経験したことないですか? ちょうど今の自分の悩みにぴったりのことばが聖書で読まれたとか、神父が今の自分の状況を知っているかのような説教をしてくれたとか。これ、あたりまえのことです。ちっとも不思議なことじゃない。聖書の言葉、説教の言葉は、神からのものだからです。皆さんの今を誰よりもご存知の、神からの言葉だから、今、ここに響いてくるはずだし、もし響いてこないなら、何かそこに邪魔があると言うしかない。
 今日も、神の言葉が、この尊い主の食卓で語られる。見てください、わたしたちはそれを聞いております。何という恵みの出来事でしょうか。

 先週、ぼくは大変ドキドキしておりますとお話いたしましたけれども、その結果をご報告いたします。この顔をみればわかるでしょう。神学校を受験した彼が、無事合格いたしました。(拍手)ひとりの青年が司祭をめざして、神学校に飛び込んでいく。これはもちろん、神のわざです。それはなんのためかと言えば、まさに聖なる教会で、聖なる朗読台で、聖なる福音を読み、聖なる説教において聖なる福音宣言をし、聖なる食卓で「食べる福音宣言」としてパンを聖別するためです。他にも司祭は色々な仕事をするわけですけれども、やっぱりここに立って福音を宣言するのは、司祭にとって本当に誇りであり、尊い使命であり、喜びです。それは、叙階の秘蹟によって教会の福音宣言そのものとなること、すなわちイエスの福音宣言に連なることだからです。道は険しいけれど、ただもう「信じなさい」というばかりです。
 先週、試験を終えて帰って来た時、「全然出来なかった」と言っていたので、発表まではドキドキでした。本当は簡単な試験なんですよ。「年間の司祭のストラの色は何色ですか」とか。それさえ書けなかったという彼に、しかし、ちゃんと合格通知が来る。だいじょうぶ、神が必要としているのは福音を宣言する司祭であって、知識豊かな司祭ではありません。信じて、福音を語る司祭。その彼も、やがて6年たてばこの説教台に「初ミサ」として立つわけでしょ。目に見えるようじゃないですか。ドキドキしながら緊張して、福音書を読む姿。そして彼は、口を開く。「今聞いたこの聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。この福音は本当です。あなたがたはみんな神の恵みを生きています。恐れないでください、もう大丈夫です」。そのとき彼がストラの色を間違えていても、全く構わない。(笑)全然、何の問題もない。そこで教会の権威のもと、イエスの名において、正しく福音が宣言されるならば。そんな時に不思議なことに必ずいる、その日生まれて初めてミサに来たなんて人に、「わたしは、あなたを、愛している」という神の言葉が届くならば。そして、そんな時に不思議なことに必ずいる、生きる道を捜し求めている一人の青年が、「俺もあの福音を語りたい」なんて思っちゃったりするのです。
 キリストの教会は、そうして神の祝福のうちに存続していくでしょう。イエスの福音宣言。教会の福音宣言。それは、世界を支えています。わたしたちみんなを生かしています。その重要さをもっともっと知って欲しいし、もっともっとそれを聞きに集まってもらいたい。どこかで聖書をひとりで読むのもいいですけど、この説教台で現実に宣言される福音は、本当にスペシャルです。どんな朗読であれ、どんな説教であれ、キリストの教会の宣言はイエスの宣言に連なり、神の祝福のうちにあると信じてほしいのです。

 「説教」っていう本でぼくの説教が批判的に取り上げられたって話をいつかしましたけど、その中で、ある牧師がほほえましいエピソードを語ってました。思わずクスリと笑っちゃったんですけど、その牧師の奥様は、晴佐久神父の説教をインターネットで読んでいるんですね。で、日曜日の朝、こう言ったそうです。「せっかく晴佐久神父の説教で元気になったんだから、それを、あなたの説教でぶち壊さないでよ」(笑)。でも、わたしはその奥様に言いたい。その日、夫が精一杯、その教会の説教台で福音を語る。それは、その日、そこでなければならない、歴史に一度の、尊い出来事です。神が、その日そこに集めたその人に語りかけてくださる。信じる仲間がそれを聞いている。それがどんなに尊い現場か。聖霊が働く現場。それは、人間の説教などで「ぶち壊す」ことなど不可能なのです。たったひとつの単語でも、神がお望みなら人を救うことができるはずです。見てください、今日もこの聖堂に惜しみなく注がれている、自由の霊の働き。それは人の心を新たにし、わたしたちは新しい歌を歌います。確かに今までの人生は本当に苦しかった。しかし、わたしは今、福音を聞いた。この喜びは、もはや消えることがない。
 今週のカトリック新聞の一面に、教皇が「主の洗礼の主日」にあたって幼児洗礼を授けている写真が載ってますけど、記事では、その時教皇が異例の、即興の説教をしたとありました。「洗礼は、単なる儀式ではない。聖霊に具体的に協力するという、人間の真の自由への招きだ。キリスト教は単に霊的なことではない。個人的に下す主観的な決断でもない。それは本質的で実質的なことであり、神の家族は教会の具体的な現実の上に築かれる」。感動いたしました。システィーナ礼拝堂で、教皇が自ら、一人の赤ちゃんに洗礼を授けている。それは救いの現実です。単に霊的なことではない。個人的な決断でもない。なにしろ幼児洗礼ですからね。教皇だって準備なしの説教をする。神の救いのわざを目の当りにして感動し、「これこそ、教会の現実だ」、と。

 今日もカトリック高円寺教会はちゃんとここにあり、現実にわたしたちは福音を聞いています。三ヶ月後には、ここで洗礼式も行われます。今、準備をしてる人もいますし、今日、ここで洗礼を決心する人もいるでしょう。聖霊が働いているんだから。ああ、こうして改めて見ると、今日初めてミサに来られた方も座ってますね。よく来てくれました、本当にうれしいです。あなたの話をしてもいいですか。三日前にこの教会に初めて来たんですよね。ちょうどお母さんたちの集まりがあって、そこにやってきた。そこで自分の話をしてくれました。若いころから自分を受け入れることができず、苦しんできた。最近、大切な人を亡くして落ち込み、生きる意味を見失って自分探しの旅に出た。全国の色々な所を回った末に、ある人に「高円寺教会に行ってみたら」と言われ、それで来た、と。すると、ちょうど開いていた天使の森で澤田神父に会って話を聞き、ちょうどやっていたお母さんたちの集まりで晴佐久神父の福音宣言を聞き、そして昨日は初めて入門講座にも参加した。そして今日、初めてそこに座って、キリストの教会のミサという最高の恵みの現場に座っている。
 確信を持って言います。この三日間は、あなたが死から命へと移る、あなたの人生の中で最高の三日間です。わたしは確信をもってそう言う。なぜなら、神があなたを教会の現実に導き、そしてついさっき、わたしはあなたにこう語ったからです。「主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を宣言するためである」。今日、わたしがそう宣言し、あなたに向かってこうして説教していること、それは単に霊的なことではない。あなたの決断でもない。キリストの教会の現実です。是非、洗礼を受けてください。神は、もはやあなたを手放すことは決してありません。
 「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」とイエスは話し始められた。それによって起こったその後のすべてが、教会です。

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