晴佐久昌英神父説教
2007年1月28日
年間第4主日(C)
福音朗読
ルカ4:21−30
<名前のあるあなたに>
ぱっと見た感じで、今日はいつもより人が多目ですね。いいお天気ですしね。(笑)でも、大勢集まるのはいいですね。ここは救いの現場ですから、やっぱり一人でも多く来てほしいと思いますよ。信じる者が集まること自体、神の恵みの目に見えるしるしですし。どうぞ、大勢、呼んで来てください。
一人ひとりは、ほんとに色々なつらい思いを抱えて生きている。仕事の現場でどれほど苦しい思いをしているか。人間関係でどれほど悩んでいるか。しかし、そんな悪の力に飲み込まれそうな一人ひとりでも、ここに集うなら、イエスが共にいてくださるから大丈夫だと安心し、信仰の喜びを体験できる。
最近、遠くからもこの救いのミサを求めて来る人が多く、今日も各地から来ているようです。川崎の小学校から二十名の小学生の皆さんが来ています。一番後ろには、広島から来た二人が立ってますね。きっと、他にも各地から来ているんでしょう。ミサの後、司祭は聖堂の外でみなさんと挨拶するじゃないですか。すると、遠くから来た人はやっぱりアピールしたいんですよね。(笑)遠くから来ましたって、ひとこと言いたいわけです。先週、挨拶の行列の中にいた人だけでも、釧路から来た人、岩手の遠野からきた3人、奈良から来た人、長野の松本から来た人、大分から来た人、長崎から来たシスター、そして奄美大島からの人もいました。なんだか全国区になってきましたね、この教会。
みんなそれぞれ、別々の土地で、別々の人生を歩んで、別々の思いで、別々の苦しみを抱えて生きているわけです。でも、そんな別々の一人ひとりが、ただひとつ、イエス・キリストの救いを信じて、みもとに集い、こうしてひとつになってミサを捧げている。すごいことだって思いませんか。バラバラな世界をひとつにする神の力を感じませんか。すべてをバラバラにして一人ひとりの尊厳を壊そうとする悪の力を滅ぼして、一人ひとりがちゃんとその人でありながらみんながひとつになれるという恵みの場を、神が現実に創りだしているのです。確かに、隣に座っている人が昨日どれほど辛かったかとか、過去にどれほど苦しんだかとかは、知らない。けれども私たちは知っています。神が私たちをここに集めてくださったこと、すべての悪を背負って滅ぼしたキリストが、すべての人をひとつにしてくれると言うこと。これは喜びです。ミサという恵みそのものです。世界を蹂躙する悪の力にこの集いは勝っているのです。
昨日「インターネットと教会」という研修会をしました。教会の本質には、すべての人に福音を伝えたいという熱い思いがあるわけで、当然、最先端のインターネットという道具についても熱い思いで目配り気配りをしているわけです。最先端だからこその、光と影があるわけでしょ。そこをきちんと見据えて、正しく用いて、神の国のために役立てようと。で、昨日の研修会で取りざたされていた一番の問題は、インターネットの悪の力についてです。最新の技術によって人々の中の良いものも引き出されてくるけれど、一緒に悪いものも出てきちゃう。便利な道具であり非常に力を持った道具ですから、良く使われるとすごく効果があるけど、悪く使われるとすごく人を傷つける。
昨日の研修会では、ミクシィというネット上のコミュニティが、さまざまな悪しき力によって崩壊寸前だというような報告がされていました。このコミュニティは会員の紹介でのみ加入できるという方法によって、実名で参加できるところが取り柄なんですけど、最近「なりすまし」という非合法な参加をする人が現れた。これは、匿名なのに実名になりすまして入り込み、コミュニティをかき乱して荒らしていくという悪質なもので、カトリック信者のミクシィでも、怖くなって結局みんな匿名になってしまったという事例があると。
匿名って怖いですね。インターネットの世界では誰もが匿名になれるので、容易に匿名で人を攻撃し、時に匿名の「群集」が組織や個人の信頼を壊すことが出来る。顔が見えない恐怖です。たぶん、匿名ってこと自体が何か悪魔的な要素をはらんでいるんでしょう。名前を出して「私だ」と言わず、「あなただ」と分からずに攻撃したり傷つけられたりしている世界。現実の世界はそんな悪魔的な力が増幅しているようにも見える。昨日の新聞にクー・クラックス・クランの真犯人が逮捕されたという記事が出てましたけど、知ってますか? 俗に「KKK」って言われる秘密結社です。かつてアメリカで、白い三角帽の覆面をした白人のグループが、黒人をリンチしたり殺害したりした事実があった。あの恐怖ですよ。群集が匿名で顔を隠し、気に入らないものを抹殺しようとする悪魔的な力。実はそれは誰の中にでもあるし、ちょっと気を許すと我々はそんな悪の力に飲み込まれてしまう。そして、特にインターネットのような本音の出やすい装置で、人々の中の悪魔的なものが増幅してしまう。
教会はそれに対してどうしたらいいかということを、昨日も話し合ったんです。そして、インターネットの世界でも、恐れずに真の福音を堂々と宣言しよう、最新の技術や発想を用いながら教会の恵みをすべての人に広げようと励ましあいました。人々が、実名で安心して出会える世界。お互いに自分そのままで出会え、つながれる。そのような天国的な教会を、インターネットの世界でも実現していきましょう、と。おそらく百年、二百年かかるんでしょう。でも教会が希望を持って奉仕するなら必ず実現できる。その人そのままで、実名で、みんなひとつ。ミサは、そんな天国をすでに実現しているわけですから。
そういえば、さっきすみませんでした。「川崎から来た二十名の小学生の皆さん」なんて、「群集」みたいにひとくくりにしちゃいました。一人ひとりに名前があるのにね。きっとこの、「くくる」ってのが悪魔的なのかもしれない。みんなそれぞれの人生を生き、それぞれの思いを持っているわけでしょ。それぞれのさびしさとか。一人ひとりが、私は神様からこの名前をもらい、この顔をもらい、この心をもらって、私は私だって言えるところ。それが教会です。
イエスを崖から突き落とそうとした人たち。怖いですねえ。さっきまでは褒めていたのに、自分に都合が悪いことを聞いたりすると、一斉に攻撃する。世の救い主、神の愛そのものである方を引きずり出し、崖から突き落として殺そうとする。その時の群集の、目のつり上がった恐ろしい顔を思い浮かべます。それこそが匿名の世界です。名のある個人ではない。後で責任追及されても「私は知らない」って逃げる人たち。「群集」。それは私たちの内に潜んでいます。
イエスはそんな群集の間から去って行く。しかし、やがてイエスは、一人の名前も顔もある神の子として、堂々とつかまります。「誰を探しているのか」「ナザレのイエスを」「わたしだ」。そうして自ら十字架につけられたのは、実はこの群集を救うため、この群集の悪魔的な力を清めて神のものとするためです。だからこそ、教会はあらゆる悪魔的な力を滅ぼすことが出来る。そして、一人ひとりが私は私であっていいという、この世の天国を実現できるのです。
安心して、キリスト者として生きて行きましょう。イエス・キリストと共にあるならば、私は、この顔で、この名前で、堂々としていられる。匿名に逃げる必要がない。群集にならなくてすむ。聖書に、悪魔が名前を聞かれて「軍団」と答えたというのがあるじゃないですか。「軍団」。怖い名前ですねえ。戦争のことも思い浮かべます。納豆で痩せると聞いたら一斉に全国から納豆がなくなる世の中です。納豆だから笑っていられるけども、やがて笑っていられない事態になったとき、群集は何をするんでしょうか。
インターネットでも、マスメディアでも、悪魔的な力が働けば、私たちはいとも簡単に群集になってしまう。教会は、その群集からもっとも遠いところにいなければならない。その教会が群集になっちゃったら、元も子もない。そこにイエスは、おられない。
今日はこのあと信徒総会がありますけれども、私たちはこの教会という恵みの場を、真の一致の場として守りましょう。一人ひとりの考え、一人ひとりの心でありながら、神がひとつにしてくれるという奇跡の現場。株主総会みたいなものとはぜんぜん違う。信じる者の総会。教会ここにありという、美しい会議です。一人ひとり別の人生、別の思いなのに、みんな一致している。
入門講座の参加者に洗礼を許可するための面接シーズンが始まりました。ぼくは今、次々と面接をして、神のわざを目の当りにして感動しているところです。先週も大勢の方の話を聞きましたし、今予約が入っているだけでも三十人近くいるでしょうか。一人ひとりと、毎日のようにお会いします。1日5人とかね。今日もこの後4人の方と面接です。これは本当に幸せな時間です。
みなさん、分かってください。その一人ひとりが、名前も顔もある一人の尊い人生を生きているんです。その人生に神が恵みを下さったのです。悪しき力の中をそれぞれ精一杯生きてきて、今その呪縛から救われようとしている。「群集」「軍団」から逃れて、今「この私」として、堂々とイエス・キリストを信じると宣言し、教会の恵みの中を生きて行きたいと願っている。そうして、教会の代表である司祭に「私は、洗礼を望みます」と表明する。それはやっぱり美しい出来事です。神が一人の人を「あなた」として選び、「あなたでなければ」という愛情で包み、「どうしてもあなたにいて欲しい」と招いて洗礼を授けてくださる。そのように、一人ひとりを大切にする神の思いが、この面接でつくづくと感じさせられて、心底感動する時期なんですよ。いい加減な思いで洗礼を望む人になんて一人も会ったことがありません。一人ひとりの思いを神が祝福し、それをひとつにする。キリストの体にする。神の愛が実現する。
第二朗読で愛の賛歌が読まれました。「愛は忍耐強く、情け深く、自慢せず、高ぶらず、自分の利益を求めず、いらだたず、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びない」。愛は、神がこの世界に与えた最高の宝であり、その最高の宝が、今、洗礼という神との一致、教会での一致として実現しようとしている。洗礼を望む皆さん、ようこそ、愛の教会へ。この愛、この洗礼によって、あなたは本当にあなた自身になれます。
洗礼式のとき司祭は、あなたの頭に水をかけて唱えます。「私は、父と子と聖霊の御名によって、あなたに洗礼を授けます」。しかし、まずその前に、司祭は必ずあなたの名前を呼びます。必ず呼びます。群衆に水をかけるのではない。名前のあるあなたにかけるのです。
「○○、私は、父と子と聖霊の御名によって、あなたに洗礼を授けます」。
その名前を呼んだのは、神です。
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