晴佐久昌英神父説教
2007年2月18日
年間第7主日(C)
福音朗読
ルカ6:17、20−26

<「よかったね」「これで安心」>
 ミサを支えにして、ミサの力で一週間を生きのびる私たち。しかし、一週間生きればつらいこと、がっかりすること、すべて投げ出したくなるようなことなどがいくつもあって、私たちの心にある疑いが忍び込みます。「どうしてこんなにつらい思いをするんだろう。もしかして神はこの私を愛していないんじゃないか」。これが生きる上で一番恐ろしい疑いであり恐れなわけですが、もしもそう思ってしまったなら、もはや自分の中にはそのような疑い、恐れに打ち勝つ力はないと悟って、次のミサの日を待ち望んでください。やがて必ず次の日曜日がやって来て、入祭の歌が歌われて、私たちは共に神に感謝と賛美を奉げます。このミサの中に神さまの憐れみが、慈しみが、無限にあふれ出しています。現実に一週間にどれほど上手くいかないことがあり、どれほどあきらめたくなるようなことがあっても、そんなことは、大きな神のみ手のうちにあっては、何ほどのものでもないと信じて、このミサで尽きることの無い神の愛の泉から力をいただきます。
 安心してください。神のみこころは、私たちのどんな考えよりも大きく、どんな説明よりも美しく豊かです。「なんでこんなに上手く行かないんだろう」。「どうして苦しみが続くんだろう」。「もしかして神は」。そんな風に思ってしまうのは生きている以上当前ですけれども、ひとたびこの聖堂に入って、入祭の歌が始まったならば、もうそこは私たちの貧しい考えを全く超えた、永遠なる神の慈しみの世界です。ここでは神が一人ひとりのすべての思いを知っていて、憐れみをもって応えてくださると、固く信じます。
 神の憐れみ。これ以上に尊いものは、この世界にはない。一人ひとりの現実の恐れとか痛みをすべて知っておられて、それぞれに親心を持って応えてくださる、神の憐れみ。この神の憐れみを受けたものは、もはやこの私も、ほんのかけらでもいいから憐れみ深くありたいと、そう憧れるしかない。
 今日の福音書のイエスの教えは、「敵を愛せ」とか、「求める者には、だれにでも与えなさい」など、命令形で書かれてあるので、何だかこれを守らないと罰せられる律法のように受け止めてしまうかもしれませんけれども、そう命じる根拠を、イエスはたったひとことで説明しています。「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」。
 そうです。天の父は憐れみ深い。その憐れみの深さを真に知った者はもはや敵を愛するしかないのです。いや、神の憐れみのうちにあって、敵なんていうものは、そもそもありえないとさえ言える。そんな憐れみの自由、憐れみの喜びの世界へ、イエスは私たちを招いておられる。

 実は、ミサで聖体拝領をしているときに、本当に神さまは憐れみ深いなと、いつもつくづくそう感じています。あらゆる状況の人がこうして聖堂に集まってくる。今、本当に落ち込んでいる人、それこそ神の憐れみを信じられなくなりかけて恐れの闇に閉じ込もっている人、あらゆる人がこの聖堂に集まって来て、そして聖体拝領を受ける。おなじパンが、今のその人の状況も条件も問うことなく、どの人にも必ず渡されていく様子。それは、イエスがご自分を全ての人に与えようとしている様子であり、それを信じたカトリック信者が、どれほど罪深く信仰薄くともともかくイエスとつながり続けようとする様子であり、これこそが神の憐れみは全世界の隅々にまで及ぶというキリスト教の素晴らしさをもっとも美しく現している出来事のように見えて、私はいつも感動する。拝領のとき、口では定式どおりに「キリストのからだ」と宣言してお渡ししますけれども、実はその時、こころの中では、「よかったね」、「もう、だいじょうぶだよ」、「これで安心」、「この愛を信じてね」、そんな風に一人ひとりに思ってお渡ししているのです。

 最近はミサの参加者が日に日に増えて、この聖体拝領の行列が長い。本当はせっかく聖体奉仕者もいることですし、何人かの信徒にお手伝いいただければ時間短縮になるのかなとも思ったりしますけれども、これだけは申し訳ないけれども、純粋に私自身のわがままで、一人でやらさせていただいています。聖体奉仕者はよくないとか、そんな思いは全くありません。ただ、今日、神がここにお集めになったこの全員に、キリストの体を、神の憐れみそのものを、司祭として手から手へと渡したいという、全く自己本位な身勝手な思いで、一人で授けております。「大変じゃないですか」とよく言われますけれど、これを大変と思ったら、司祭として何かがずれていくような気がする。むしろあの拝領への奉仕の喜びでようやく生きていける者として、特別なとき以外は一人で奉仕させていただいています。
 先週の典礼委員会では、この前の拝領行列が18分かかったと話題にでていて、誰が計ってるんだか(笑)、びっくりしましたけど、確かに18分は長いかもしれません。でも、キリストご自身が、ご自分のからだを、司祭の手を通して、キリスト者に手渡す瞬間、それは、カトリック教会の一番中心で輝いている救いの出来事であるはずです。今、神の憐れみがこの人に現実に及んでいるんだという感謝と感動を持って、一人ひとりの拝領を見守っていいんじゃないでしょうか。「よかったね」、「これで安心」と。

 昨日の癒しのミサにも、苦しんでる人や辛い人がいっぱい集まって来てましたけれども、ミサの直前に電話が来ました。「精神的に不安定で、どうしても家を出られない。ようやく今出る決心がついたけれど、今からじゃ聖体拝領に間に合うかどうか分からない。でも、どうしても拝領したい。何とかなりまでんか」。それで、ゆっくりとミサを捧げ、ゆっくりと説教をして、「そういう人が今このミサに向かってますからお祈りしてくださいね」なんてことも話してミサをしておりましたら、ちゃんと聖体拝領に間に合ってやってきました。これ、本当はミサのどの段階に間に合ったら聖体拝領をしていいのかという指針が諸説あるんですけど、例えば福音朗読までにはとか、せめて奉献文のときにいなければとか。説はいろいろでしょうけど、苦しんで苦しんでひと月を過ごし、なんとか必死な思いで家を出て、ようやく聖堂にたどり着いて聖体拝領に間に合った、その人のためにそのミサが奉げれれていたと言うべきじゃないですか。その人のためにキリストは十字架にかかったんだ、それがキリスト教じゃないですか。神の憐れみが、全ての人に及ぶ。どんなだめ人間でも、どれほど疑っていても、「だからこそ」と言うように神の憐れみが及ぶ。ご聖体が一人の人に渡されるときに、確信するのは、「神は本当にこの世界を愛している」ということです。

 洗礼を準備している方たち、洗礼式は神の子として新たに生まれる恵みのとき。そしてキリストの体を直接口にする恵みのときであります。神の憐れみがあなたの内に実現する。皆さんとの面接のときは、まさに神が絶妙に、圧倒的に、働いておられるのを感じて、それは神の憐れみを感じることのできるときでありました。
まだ迷っている人もいれば、この面接で決めようと思って来る人もいる。まさに真剣勝負ですね。みなさんから次々出てくる疑問、質問。誰にも言えないその人の悩み、恐れ。それを誠心誠意受け止めないと、真剣勝負ですからどちらか怪我したりするわけでしょう。気が抜けません。ひと言ひと言をていねいに聴きながら、この人が何を悩んでいるのか、何を求めているのか、時に自分でも気づいていないような、どんな恐れに囚われているのか。それを受け止めて、そして応える。それは精一杯やりますけど、でも、そんなこと、果たして人間にできることでしょうか? どんな優秀なカウンセラーだって、10人は成功しても11人目に切ったり切られたりするんじゃないですか。
 ですから、面接を聴く司祭は、こう思うのです。神の憐れみは完全だから、必ずこの人に及ぶ。何があろうともこの人を救う。私は今ここで神は必ずこの人に憐れみを示すと、絶対疑わず信じるだけ。そうして信じて座っていれば、あとは神が働いてくださる。
 先週面接した一人の男性は理科系の方で、だから質問も非常に合理的、論理的。聖書のこと、教会の間違った歴史のこと。でも、それらの質問に次々答えていくうちに、私、言いました。「もういいでしょう」と。こういうことをどれだけやり取りしても、あなたの魂への答えにならない。今、どうしてもこれだけはっていう魂の問い、もしこの面接で一問だけしか許されないとするなら、何聴くかってことを聞いてほしいと言うように促しました。すると、彼はこう聞いたんです。「神父さん、あなたも悩んだり、恐れたりすることがあったんですか?」。私は答えました。「もちろんです。本当に苦しんだし、死のうとさえ思った。でも、神が教会を通して憐れみを注いでくださったので、私はこうして信じて生きています。そもそも、イエス自身も恐れたし、苦しまれた。わが子のその恐れと苦しみに、神が全面的に関わって憐れみを注いでくださったというのが、キリスト教のすべてです。」
 復活のイエスが宿っているこのキリストの教会を信じてくれと言いたい。だからもう大丈夫なんだと。それは全ての、この苦しい世界を生きている全ての人に対する神からの宣言なのです。安心してほしいと。
今日の、聖体拝領のときは、「神の憐れみがこの私に及んだ」ということをまっすぐにうけとめて、キリストのからだを拝領してください。そして、神の憐れみが宿ったものとして、こんな私も憐れみ深くなれるかもしれないという希望を取り戻してください。

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