晴佐久昌英神父説教
2007年3月4日
四旬節第2主日(C)
福音朗読
ルカ9:28b‐36
<これを知っていたなら>
皆さん、どうですか。ミサに集められ、祝福を受けて、本当に安心して今そこに座っているのでしょうか。なぜこのわたしなのか、どうしてこの聖堂なのかはともかく、神がどうしてもあなたに居て欲しいと願ったからこそ、今日そこに皆さんは座っております。自分で選んだのではなく、神によって呼び集められ、ある意味で「否応なし」に呼び集められております。
わたしたちは、そのような神さまのみわざの中で、初めて本当に心から安心することができる。本来は、いつでもどこでもがそのような「神のみもと」という恵みの場であるはずですが、特にこの主日のミサという恵みの時にこそ、掛け値なしに神の栄光と天のよろこびを頂きます。そうすれば、もうあと一週間も何とかなるんじゃないですか。
ここで、こうして本当にくつろいでゆっくりと過ごす、この気持ち良さはどうでしょうか。世の中に気持ちいいことっていっぱいありますけれども、こうしてミサで魂がいやされ、神の愛の中に自分が存在していることを確かに感じられるよろこび、この気持ち良さにまさるよろこびはないと思う。お風呂に入って「ああ気持ちいい」、おいしいもの食べて「ああ気持ちいい」っていうのもまことに気持ちいいことですけれども、この静かな日曜日の朝、ミサに集って共に神のみもとに座るこのひととき、この気持ち良さはどうでしょうか。いつの日か天に召され、真の神のみもとで真の気持ちよさを味わう日まで、わたしたちはこのようなミサのよろこびに生かされていくのです。
イエスと弟子は、山のてっぺんで、もう天国の一部に入ってしまったかのようです。うらやましいですね、この3人の弟子は。山の頂って、天の一部ですから。スペシャルなんですよ、山の頂。山はあくまでも地上ですけど、ちょうど雲海の上に山頂だけが出ているように、頂はもうほとんど天国。そのような神の世界を、イエスは弟子たちに体験させたかったのでしょう。人生は苦難と試練に満ちていますし、くじけてもうダメっていう時もあるだろうけども、一瞬でも天国を知っていれば励まされますからね。事実、イエスは十字架の上で本当にすべてを捧げて殺されてしまうわけで、弟子は究極の闇、絶望の夜を過ごすことになる。それを知っているイエスは、どうしてもすべての闇の向こうの栄光の世界を見せたかったわけです。
パウロがさっき言ってました。「わたしたちの本国は天にある」と。その本国をちょっとでも知っていれば、一瞬でも見て、体験して、感動していれば、わたしたちは、「ああ、あそこにわたしたちは帰るんだ。この試練の日々は、あの天に至るプロセスなんだ」と、信仰のうちに耐えられるでしょう。
それで言うならばですよ、実はこの3人の弟子よりもわたしたちは圧倒的に恵まれているんです。なぜなら、もう既にイエスの死と復活を体験した教会は、こうして毎週日曜日に、わたしたちを山の頂へと導いてくれているからです。ここはもうてっぺんなんです。ミサという頂き。ここでわたしたちは、ふもとにいた時には見ることの出来なかった天の栄光を垣間見て、励まされて、お弁当のように神の愛そのものであるキリストのからだを頂いて、そして下山する。「行きましょう、主の平和のうちに」と宣言されて。そうして、またいつでもこの頂に来ることが出来るというよろこびに励まされて、わたしたちは今日一日、また一日を生きてゆくことができる。いわゆる「御変容」の、この出来事を読むとき、わたしはいつも、ああ、この山の頂は今日のこのミサじゃないかと思うのです。
つい先日、興味深いお手紙を頂きました。30年前大病をしたとき、病院で同室の仲間が次々亡くなっていくのにとても苦しい思いをして、しかしその時はただ恐れて何もできず、そのことをトラウマのように心に抱えてきた方です。その後洗礼を受け、今はあるシスターの指導で、信者ではない方たち中心の読書会をしているそうです。で、わたしの『星言葉』という本を1年かけて読んだと。それはなかなか評判が良かったんだけど、じゃあ次の本は何にしようかということで、同じ著者の本で行こうと、シスターが説教集『あなたに話したい』を選んだ。ところが、これは評判が悪かった。(笑)ご存知の通り、あれはもう始めっから「ミサを信じましょう」ですから。ミサと洗礼を中心に、福音宣言をする共同体作りということで、毎週毎週「ここが神のみもとだ」「ここに救いがある」と、ミサの神秘と栄光について語り続けてきた説教集ですから、一般の方にはちょっと縁遠かったみたいです。「何でそんなにミサ、ミサって言ってるの」とピンとこないし、いくらなんでもそのうちに違う話題になっていくだろうと思いきや、「また今日もミサの話だね」「またミサか」と、散々だったと。なのに、みんなが「本を変えませんか」とまで言っても、シスターは頑として変えなかったそうです。そうすると、毎週読んでいくうちに、さすがにそのミサとやらに興味も出てくるらしく、やがてみんなに隠れてそっと高円寺教会に見学に行く人が出て来たそうです。そういう人のことを、仲間うちではひそかに「裏切り者」と呼ぶ(笑)そうで、もしかして今日も来てるかもしれませんね。そして、手紙のぬしも、どうせカリスマ神父なんて口がうまい説教するだけだろうと思っていたけれど、先日ひそかに高円寺教会に「見に」行ったら、本気で神を信じてミサを捧げている神父がいた。正直に病を恐れ、死を避けたいと思いながらも、すべての不幸を神は幸福に変えてくださると 叫んでいるようなミサだった。本当にミサはパーフェクトなのかもと思ってしまった。そして、もしも30年前にこのことを知っていたら、布団の中で震えていないで、死にゆく友人に、一緒に「怖いね」と言い、「でも、どうやら大丈夫らしいよ」と分かち合えたのに。と、ありました。
そんなミサを、わたしたちはもう知っております。ミサを信じる信者と、信じて司式する司祭によって、今日もこの山の頂は晴れ上がって、神の栄光が曇りなく一人ひとりに注がれる恵みの場であるはず。「これを知っていたなら、あんなに辛い思いをしないですんだのに」という、それを皆さんは知っております。もう、山の頂にわたしたちは来ているのです。
「本国は天にある」。パウロの美しい言葉です。先週、洗礼志願者となった皆さんは、その「本国」に、今度の洗礼式の時にようやく帰り着くのです。ああ、ここがわたしの本当にいるべきところだったと。それは、もう既に亡くなった方々もおられるところ。神の栄光の中で、「神に感謝」、「キリストに賛美」と、天のミサが捧げられているところ。その本国とつながっていることが、この地を生きるわたしたちにとっての支えです。わたしたちはそう信じて、心から「神に感謝」と。最近、祭壇奉仕者の声、大きいですね。「神に感謝!」。まあ、いいでしょう。どのみち、我々のささやかな感謝なんかは、神の圧倒的な恵みのほんの1パーセントにも足りないのですから。
洗礼志願者の皆さん、今日、午後2時から東京カテドラル聖マリア大聖堂で行われる「司祭叙階式」に、是非出席して頂きたい。ちなみに、東京教区ではこの司祭叙階式はむこう3年間ありません。今日の叙階式を逃したら、3年後までないのです。いまこの教会を手伝っている神学生が3年後に叙階するまで。何より、この司祭叙階式が、洗礼志願者にとって大きな励ましになると思うので、是非参列して頂きたい。
ある意味では、ミサの本質をよく現しているといってもいい。それは単に一人の司祭が誕生するという出来事というよりは、教会が、秘跡という神の恵みを、本当に信じてこの世界に実現させているという出来事なのです。わたしは今日「呼び出し」という役をやるんですけど、これは、叙階される3人の新司祭の名前を、一人ずつはっきりと、大きな声で呼び出すという役目です。それは、ある意味で、天からの呼び出しです。その人の名前をはっきりと呼ぶと、本人は「はい」と答えて、立ち上がり、祭壇に向かって歩みだす。それは、天がこの人を通してこれからミサを実現させるのだという、天の意思表示でもあるのです。
叙階式自体は司教の按手という秘跡のしるしで成立するわけですけども、その按手前に、受階者は、司教の前で、床にうつぶせにひれ伏します。本当に体を投げ出して、うつぶせになるんですよ。パウロは、「彼らはこの世のことしか考えていません。しかしわたしたちの本国は天にあります」と言いましたけど、その、この世のことから離れて、天を全面的に信頼する姿が、このうつ伏せです。一旦この世においてキリストと共に死ぬ、という姿です。そうして完全に身を投げ出している時に、聖人のみ名の連祷が行われます。大勢の天にある聖人の名前が次々と歌われて、わたしたちは「我らのために祈りたまえ」と祈り続ける。
わたしが叙階を受けたちょうど20年前、そうして身を投げ出してうつ伏せになっている時、気が緩むせいでしょうか、ポロポロ涙がこぼれました。カーペットがシミになるほど。それは、もはやこの自分が生きているのではない、神が生かしてくださっているのだという、全てを委ねる恵みをいただいた究極の安心の涙でした。死ぬほど悩んだし、毎日苦しかったし、でも今、神の恩寵によって自分は生きている。今、キリスト共に死にますから、後は神が働いてくださいという、そんな安心の涙でありました。
来週、3月15日、わたし、司祭叙階20周年です。わたしはいまだにあの叙階の日を忘れることがありません、それは、山の頂で神さまが特別に天国を見せてくれた恵みの時でしたし、それからも山の頂に奉仕し続ける人生の出発点でしたし、今日の午後、わたしの後輩3人が、その山の頂を体験するのです。もし可能ならば、是非この叙階式に参列して、神の恵みがどれほどのものであるか、とりわけミサにおいてそれが実際にわたしたちを救っているという現実が、どれほど安心なことかを一緒に体験してほしい。
教会は、皆さんをこの山の頂へ招きました。そこで神は、皆さんに語りかけます。「これはわたしの子、わたしの心にかなう者」。何という光栄でしょう。今日も、このミサに集まっている一人ひとりに、とりわけ洗礼志願者に、神は語りかけてくださっています。「これはわたしの子、わたしの心にかなう者」。これを知っていたなら、と言う大勢の人がいることを忘れないでほしい。
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