晴佐久昌英神父説教
2007年3月11日
四旬節第3主日(C)
福音朗読
ルカ 13:1‐9
<ぼくがしなければならないことは>
さて、このイチジクの木のたとえ話。クイズじゃないですけれど、皆さんに質問をいたしましょうか。命拾いしたこのイチジクの木、来年実ると思いますか? まあ、これはたとえ話ですから正解なんてありませんけど、皆さんに考えてもらいたいですね。3年間、実が実らないイチジクの木です。主人が切り倒せと言うのは、理解できる。もうこれからも実らないだろう、と。しかし、優しい園丁が言うわけです。「今年もこのままにしておいてください。肥やしをやってみます。来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください」。で、たとえ話ではそこまでは触れていませんけど、たぶん主人は「そうか、まあ、いいだろう。そこまで言うなら1年待ってやろう」とか言ってくれたんじゃないでしょうか。それはそれでいいとして、問題は、さて、それじゃその来年、この実は実るかってことです。皆さんはどう思います? このたとえの続きを書くとしたら、どういう物語にしますか? まあ、皆さんは優しいから、きっと「翌年、たった一つだけれどついにイチジクが実り、園丁は涙を流して喜び、主人もほめてくれた」なんて話にしたいんじゃないでしょうか。
わたしは、このイチジク、来年も実らないと思います。冷たいと思われるかもしれませんが、晴佐久昌英作『来年のイチジク』(笑)では、決して実りません。当然、主人がやって来て園丁に言います。「ほーら見ろ、おまえがあそこまで言うから待ってやったのに、やっぱり今年も実らなかったじゃないか。いくらなんでももう待てない。今年こそは切り倒せ」。すると、園丁はひざまずき、ひれ伏して、地面に額をこすり付けて頼みます。「あと1年、あと1年だけ待ってください。去年以上に肥やしをやり、去年以上に世話をして命がけで守りますから。お願い申しあげます。どうか、どうか、あと1年だけ待ってください」。園丁のその必死な願いに根負けして、主人はしぶしぶ許しました。とか、そういう話がいいな。では、『再来年のイチジク』は?(笑)
もう、おわかりでしょう。イエスのたとえによく出てくる、このテーマ。どこまでも許す、絶対に救う、決して裁かない。それがこのたとえの心でしょ?実際、姦通の女を引きずり出してきて殺せって言っている人たちからその女を救ったとき、イエスは「わたしはあなたを罪に定めない。もう罪を犯さないように」と宣言しますけれど、でも、じゃあこの女性がもし、もう一回姦通を犯してまた同じ状況になったとしたら、イエスは何て言うか。「今度は許さん。もはや仕方がない。石で打ち殺せ」って言うでしょうか。むしろ、さらに慈しみ溢れる声で、「なおもわたしはあなたを罪に定めない。もう罪を犯さないように」と言うんじゃないですか? ぼくが信じているイエスは、そのようなイエスです。あるいは、放蕩息子が再び家を出て放蕩し、また飢え死にしそうになって戻ってきたならば、父親は「今度こそは許さん。何度失敗したら気が済むのか。もう、お前なんかは息子じゃない」って言うでしょうか。むしろ、「今度ばかりは戻ってこないかと思って、本当につらかった。でも、お前は戻ってきてくれた。もうわたしは死んでもいい。さあ、前回よりもっといい子牛を屠れ」って言うんじゃないですか? ぼくが信じている天の父は、そのような方です。そのような神でなかったらわたしは救われない。というか、あらゆる人が救われない。
こういう圧倒的な神の恩寵の中でこそ初めて、10年後に小さなイチジクが実ったりもする。そのときこそ、感謝して感動して「ああ、今まで生かされていたのはこの日のためだったんだ」と思えばいいのです。イチジクは、逆立ちしたって自分で自分に実をつけることは出来ません。どう考えても切り倒されるしかないこのわたし。けれども、神が圧倒的な恩寵でこのわたしに、また美しく葉を茂らせ、実りのときを待つよろこびを与えてくれている。わたしはこういう福音に救われます。福音朗読の前半のところですけど、当時は罪人に罰が当たり、罪人は滅びると思われていたんですね。だから、ピラトがガリラヤ人を殺したとか、塔が倒れて人が死んだとかいうことがあると、よほど罪を犯したんだろうとか思われたわけです。今でも災難に遭った時、「神よ、なぜ?」とか「呪われてるんじゃないか」とか言う人がいるけれど、イエスは「決してそうではない」と言う。罪人に塔が倒れてくるんだったら、全人類、塔の下敷きです。イエスは、そうではないよと、この、優しい優しい園丁の話をしてくれたのです。ぼくはこの園丁を信じます。そして、こんなに罪深い自分だけれども、神の恩寵のうちに、小さなイチジクの実を一つ実らせることができると信じています。
恩寵って言葉、ご存知ですか? グラツィア。絶対的に聖なる方、尊い方からの愛です。最近は「恩恵」とか「恵み」とか訳しますけど「恵み」っていうと何だか人間同士でも使えそうなニュアンスで、なんか物足りない。もっと圧倒的なんです、「恩寵」の世界は。神が、決して消えることのない永遠で一方的な愛でわたしを満たしてくださる。その恩寵の中でのみ、わたしは今日も葉を茂らせて実りの日を待っていられる。決して切り倒されず、こうしてわたしとして存在する。これを「恩寵の世界」と言い、その恩寵をのみ信じて生きるのを「恩寵生活」と呼ぶのです。呼ぶのです、って昨日の入門講座で発明したんですけど(笑)。いいでしょ?「恩寵生活」。わたしは、恩寵生活をしたい。何も出来ない完全に無力なこのわたしを、圧倒的な神の愛が守ってくださる日々。
ま、四旬節は回心のときですから、もっとああしなくちゃ、こうしなくちゃ、こんな自分じゃまだまだ、とか思いがちですけど、ぼくは四旬節こそ恩寵に全面的に信頼する日々であるべきと思う。イエスが「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」っていうのは、そういうことじゃないですか? そうして「神の愛をのみ信じる」と悔い改めるならば、「生かされてわたしはここにある」と顔を上げて言えるんじゃないですか。「恩寵生活」をいたしましょう。特に洗礼志願者。「こんなわたしじゃ洗礼受けられない」みたいなことを言う方も多いですけれども、まさに、そのあなたのために洗礼がある。洗礼こそ百パーセントの恩寵だから。それに心から信頼して、安心して洗礼を受けて欲しい。そして、四旬節の日々、この教会全体に「全ては恩寵の日々なんだ。恩寵の中でわたしはわたしを生きる。あなたはあなたを生きてほしい」っていう雰囲気が満ち満ちていて欲しい。そういうところにこそ人は集まって来るし、ぼくも、そういう意味でなら、もっともっと回心したいなって本当に思う。
なんか、ある人が最近の噂話を耳に入れてくれたんですけど、「晴佐久神父は澤田神父が来てから優しくなった」(笑)らしい。ってことは、以前は優しくなかったってことですよね(笑)。うーん。どうですかねえ。勘違いじゃないですかね。人ってそんなに変わらないと思いますよ。今まで通り、これからもあんまり優しくありません(笑)。あきらめてください。むしろ、澤田神父さんのおかげで、みんなの人を見る目が優しくなったっていうことはあるような気がする。そのせいでわたしまで優しくなったように見えたりとか。
ただ、最近、変な言い方だけど、神さまの前でいっそう開き直ったっていうのはありますね。昨日、神学生と「お互いのいいところを言おう」なんてやっていたときに、「神父さんのいいところは、全面的に自己肯定しているとこ」って言われて、確かに、恩寵生活を極めるには、もうどんな自分であれ、ある意味開き直って、そのいただいた恵みを生きるしかないわけです。それは当然、他者を肯定することでもある。
そう言ってくれた神学生も、そう言えば今月の教会報に素敵な原稿を書いてました。ぜひ読んでくださいね。ちなみに、これ読んだ人が「晴佐久神父さん、手、入れたでしょ」なんて言ったけど、失礼な。そんなことするわけないじゃないですか。第一、それを読むまで知らなかったんだから。ぼくは読んで感動したし、励まされた。中でもすごく印象的なフレーズがあって、「ぼくが無理に力を入れて自分を変えようとするのは、もったいないことだと思います。ぼくという世界に一人しかいない人間を、神さまは良い者として造ってくださったのです。ぼくがしなければならないことは、ぼくを生きることだと思います」っていうんだけど、いいフレーズでしょう? 「ぼくがしなければならないことは、ぼくを生きること」。神がこのわたしをお創りになった。神がこのわたしを守っている。決して切り倒さずに役立てようとしている。だから、わたしはわたしのままここに生えてれば、それは神の喜びなんだっていう、全面的な信頼。自分をそのように受け入れることが出来て初めて、隣のイチジクに文句を言ったりするのを止めるんじゃないですかねえ。
自分を全面的に肯定すること。それを極めるのは恩寵生活の一つのあり方ですけれども、この第一朗読のモーセの出来事は、かつてぼくが自分で自分を一番否定していたときに、ぼくを救った箇所でもあります。いつかもお話しましたけど、自分で自分を受け入れられず、最も闇の底にいたとき、もうここで手を離したらこのまま地獄に落ちていくっていう瞬間、本当に自分の存在の全部をかけて「神さまー」って叫んだら、神がわたしに向かって自分を開いてくれたという体験があるんです。そのときの自分の体験を言葉にするならば、まさにこの、モーセに対して神が自分を開いて語ってくれた言葉なんですよ。「わたしはある」。不思議な言葉だけれど、この世界を支える根本の言葉でしょう。
モーセも、自分なんかは使いものにならない、わたしなんかには無理だって思ってたんでしょうけど、「『わたしはある』というものがお前を遣わす」と、神はご自分を開いてくれた。「わたしはある」っていう方が世界を創り、その世界の真ん中に確かにその「わたしはある」にあらせられて、わたしもある。わたしがわたしを生きるっていうのは、わたしをあらせた方がなさっていることを、そのまま生きるということ。ぼくは、「わたしはある」って言いたい。「ある」自分を信じて生きて行きたい。
「こんな自分はダメだ」と思っているあなたに言いたい。「あなたはある」。「わたしはある」という方が「あなたはある」と、そう宣言してくださっている。あなたは、なければならないのです。それを信じることが悔い改め。その意味では、悔い改めなければ滅びると言うイエスの言葉は本当です。
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