晴佐久昌英神父説教
2007年3月25日
四旬節第5主日(C)
福音朗読
ヨハネ8:1−11

<わーい、泣いた、泣いた>
 「わたしもあなたを罪に定めない」。みんなが目を吊り上げてこの女を責めている中で、イエスの優しいまなざしだけが際立つ、すばらしい逸話です。これこそが、イエス・キリストの現場です。神の慈しみが、イエスの宣言によってそこに実現し、全く新たにされる現場。それこそが、教会という現場です。
 先日NHKから手紙が来て、「心の時代」という番組への出演依頼でした。何日かすると直接番組のディレクターが花束抱えてやって来て、「ぜひご出演いただきたい」と。さすがNHK、わたしの書いたものは先に読んで調べているし、すでに下見でここのミサにも来ているんですね。その上で、ぜひこれこれこういうお話をしていただきたいと本当に丁重に依頼されました。でも、申し訳なかったんですが、お断りいたしました。「なぜでしょうか」と聞かれたので、「気が進みません」(笑)とお答えした。それ以上、言いようがない。ぼくは、相手が目の前にいるナマの現場、相手と直接響き合える信頼関係の中でなければ、福音を宣言できない。テレビカメラの前では無理です。それはもう去年、ラジオの番組で嫌と言うほど思い知ったこと。本当は電話も無理で、しかたなく話すことはありますけど、いつも緊張して、苦しい。ぼくは、教会のようなナマの現場で直接人と会い、仲間と共に生き、聖霊が働く一瞬に感動しながら生きていければそれで十分です。何かを説明するのではなく、「今ここに救いがある」と宣言し、それを聞いた人の顔が、目の前で輝く一瞬。そのときようやく自分も救われる。スタジオでは無理です。司会のアナウンサーに、「神はあなたを愛している。あなたの罪はすべてゆるされる。洗礼受けなさい」なんて話してもいいなら別ですけど。でも、それなら何もカメラの前でなくともいいでしょう。

 イエスの現場に、こよなく心惹かれます。イエスと触れ合った人が、直接ゆるされ、直接福音を宣言される現場。わたしたちの教会はそういう生きた現場です。何かを不特定多数の人に説明したり、一方通行の話しで押し付けたりするのではなくて、同じ場所に共にいて、目の前の相手の気持ちに共感して、「その気持ち、わかるよ」と言う現場。共感された人が「ああ、わたしは受け入れられた」と心ほどける現場。そこでは誰も裁かれないし、誰も責められない。それが教会ということでしょう。そういう現場がこの世界を救うのだし、そうでない現場が人を縛りつけ、人々を傷つけている。わたしたち高円寺教会は、神のゆるしと慈しみに直接触れられる、真に秘跡的な教会であってほしい。
 洗礼志願者のみなさんの顔、最近変わってきましたよね。やっぱり顔変わりますねえ。初めてこの教会に来たころは自分を責めていたその顔が、今は輝いている。それは神の業です。教会という、神の恵みに触れる現場で安心したんでしょうね。わたしは罪びと、当たり前です。あなたも罪びと、当たり前です。そんな罪びとを神は集めて、直接ゆるし、祝福してくださっている。ここにいれば大丈夫という、その安心でみなさんの顔は変わったのです。もうすぐ来る洗礼式のとき、すべては完全にゆるされ、その顔も最高に輝くでしょう。

 イエスの元に連れてこられたこの女性に、皆さんも共感できるはず、その気持ちに。なにしろ姦通の現場で捕らえられたんですから。着のみ着のままで連行される恥辱。殺されるかもしれないという恐怖。誰も味方がいない孤独。罪から離れられない自分を呪う自責。そんな女性の気持ちは痛いほど分かるはず。しかし、そこにいる人は誰一人、この女性の気持ちなんて考えもしない。共感もしないし、その思いを想像すらできない。そんな人たちの中で、イエスのまなざしだけが、その恥辱と恐怖と孤独と自責の、底知れぬ闇をしっかりと見ている。そしてその闇に向かって、「わたしはあなたを罪に定めない。」と宣言する。神からの直接のゆるしの宣言の中で、彼女は人生で初めて、新しくなった。生まれ変わったのです。人は、愛とゆるしのまなざしの中でしか、新しくなれません。
 第一朗読、イザヤの預言に美しい言葉がありました。「見よ、新しいことをわたしは行う。昔のことを思いめぐらすな」。第二朗読のパウロも言ってました。「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって召してお与えになる賞を得るために進むだけ」神さまの慈しみとゆるしの中で、わたしたちは新たにされ、顔が変わっていく。

 元教会委員長であり、現「一粒会」の運営委員長がお亡くなりになりました。毎月一回、ミサのお知らせで一粒会の募金を募っていた姿を皆さんご存知のはず。いつも最後に「それではひとつ、よろしくお願い申し上げます」と言う、あの口癖を思い出します。長い間一粒会を支えてくださいました。教会の未来を信じて、奉仕し続けてくださった。一粒会というのは神学生のための教区の組織ですけども、その一粒会が集めた献金のおかげで神学生たちは安心して神学生でいられるのです。ご存知でしょうか、世界的には珍しいんですが、日本の神学校って無料なんですよ。全寮制で寝床と食事は保障され、学費も全額援助され、それどころか教区から小遣いまでもらい、それで足りるかと思いきや、神父にもたかって(笑)、生きている。じゃあその金、どこから出てるのかといえば、まさに、亡くなった彼が集めていたんですよ。一粒会というのはそういう組織です。何一つ文句言わず集め続ける。たとえ神学生がやめようとも「金返せ」なんて言いません。神学生が、きっと教会の未来を支えてくれると、ひたすら信じて奉仕しているのです。毎月毎月、そうして各教会の一粒会のメンバーが少しずつ集めたそのお金とその祈りに支えられて、神学生は育っていく。ちょっと甘やかしすぎではと思うかもしれませんが、でもそれは、教会の本質的な姿だって思う。そもそも神さまって、教会を甘やかしているじゃないですか。だから教会は、「もっとお前、ああしろ」とか「こんなお前は出て行け」とか言わず、「わたしもあなたを罪に定めない。わたしたちが出合えたことはすばらしい。あなたにいて欲しい」と言えるのです。そういう現場を実現させることで、神がすべてをゆるすという福音を宣言する。

 今日の午後、その神学生のためのミサというのを4時からやります。今、春休みの間、神学生が三人もこの教会に住んでいます。珍しいことですけど、偶然が重なって。でも、幸福な日々でありました。もうすぐ春休みが終わってそんな幸福な日々も終わりますけれども、小さな天国のような日々でした。だって、神学生たちが、自分はここにいることはすばらしいと感じられ、自分が受け入れられていると安心する体験ができるなんて、天国でしょう。それは、神がそうして自分たちを受け入れてくれているということの目に見えるしるしであって、その体験をした者が、やがて小さな天国を生み出すんじゃないですか。時々、「晴佐久神父さん、ちょっと甘やかしすぎなんじゃないの」って言われるけれども、むしろまだまだ足りないくらいと思ってます。誰にでも「あなたがそこにいてくれればそれでいい」って言える、天国のような教会がいつの日か生まれてくれればそれでいいのです。まあ、「教会に泊めてもらってるんだから朝のミサくらい起きて来いよ」とか思ったりすることもあるけれど、そんなことはお互い様というか、どうでもいいんです。朝起きろとか、姦通するなとか、それは人間のルールなんであって、それが絶対なら石で打ち殺さなければならないわけでしょう。イエスはこの世のルールを愛で越えている。「わたしはあなたをゆるす。あなたと一緒にいたいから」。それがキリスト教でしょう。そうでなかったら、それは教会じゃない。「キリスト教のようなこの世の団体」に過ぎない。

 神学生たち、ありがとう。特にこの2年間この教会で研修して、春休みが終れば去っていく一人の神学生には、心から感謝したい。どうもありがとう。すばらしい働きでした。こうして説教でお礼言うのはわたしの得意技ですけども(笑)、君には本当に感謝してます。でも、君も変わったよね。最初のころの自分自身をちゃんと受け止め損ねているような感じから、ずいぶん自信を持てるようになった。昨日も入門講座で最後の十分話してもらったけど、いい話でした。その後で言ってましたね。「来たころなら、晴佐久神父の隣で話すなんて、自信なかったけど、今回はごく普通に自分らしく話せたし、むしろ隣の晴佐久神父に福音を語ろうと思えた」と。うれしいですよね。つまり、君は成長したのです。自分を通して神が働くという恩寵を知ったのです。
 でもそれは、この教会があなたをゆるし、受け入れ、あなたがいてくれるとうれしいという思いを持っていたからです。もしも、もっと立派になれ、こんな神学生じゃだめだと、つまり、あなた自身ではなく理想の神学生を求められるだけだったら、ぼくの隣で話せなかったはず。わたしたちの教会は、神にわたしは受け入れられているっていうことを体験する場です。
 実は昨夜の入門講座で、最後に神学生に話してもらったのにはわけがある。入門講座で彼に話させている間に、みんなはホールで彼のためのびっくりパーティーを準備したんです。彼の大好きな海老の料理を用意して、「二年間ありがとう」なんて横断幕までぶらさげて、ホールを暗くして隠れている。彼の話が終わったとき、ぼくは彼にお願いしました。「ホールで別の神学生が作業しているので、彼を呼んで来てください」。で、彼が暗いホールに入ると、そこで別の神学生が一人、スポットライトの中、「去り行く神学生に捧げる歌」というのを歌っている。彼がびっくりして聞いていると、クラッカーを鳴らしながらみんな出てきて明かりがつき、「ありがとう!」と。本人、感動して、くしゃくしゃの顔で涙こぼしてました」。みんなで、「わーい、泣いた、泣いた」(笑)
 すばらしい仲間たちです。教会、ということです。ぼくたちは、あなたがいてくれてよかったと心から思っているのです。あなたがどういう人だからではなく、神が出会わせてくれた人だから、一緒にいたのです。それは、教会そのもの。そんな教会をあなたも実現させてください。
 昨日のあの神学生の涙を、亡くなった一粒会運営委員長に見せたかった。ゆるされ、受け入れられて成長するキリスト者の姿、教会の現実を。一人ひとりの洗礼志願者、神学生、司祭を育てるのは、イエスの現場、教会です。志願者の皆さん、再来週は洗礼式です。洗礼式が実現するのは、神があなたに、「わたしはあなたを罪に定めない」と宣言しているからです。

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