晴佐久昌英神父説教
2007年4月1日
受難の主日(C)
福音朗読
ルカ 23:1−49

<わーい、泣いた、泣いた>
ごらんのとおり、洗礼志願者がほぼ全員集まりました。来週の洗礼式を前に、ミサのあと教会説明会と洗礼式リハーサルがあります。いよいよですね。来週、神は 皆さんに、ご自身の愛を注いで、洗礼の恵みを授けてくださいます。なんてすばらしいことでしょうか。皆さんは、新しい命をいただくのです。
皆さんにはこれまで入門講座でお話してきましたし、面接ではその心の内も聞き、共に祈ってまいりましたけれども、今日は言わば「総まとめ」のお話をいたしましょう。皆さんすでに洗礼志願者として信仰の恵みに与っておりますけれども、最終点検とでも言うんでしょうか、来週皆さんが本当に神のみわざを受け止めることができるよう、ここで改めて最も基本の話をしておきたい。言うなれば、「これだけは押さえておいてほしい。ここだけは外せないよ」というような、信仰の基本中の基本についてです。もちろん、キリスト教の信仰は余りにも豊かで、「これだけは」という基本がたくさんありますけれども、今日集まった皆さんの顔を見ていると、今、ここで言うべきことは、たった一つだと思う。「この目に見える現実の仲間、現実の教会を信じてほしい」ということです。
 神について、キリストについて、永遠の救いについて、さまざまに語ることができるし、神学、聖書学の基本も語らなければなりませんけれども、どんなに勉強しどんなに悩んで祈っても、神の働きの生きた現実である教会という秘跡から離れては、真のよろこびはありえません。そしてあなたたちは、その秘跡に与ろうとしている。ですから、ここで今宣言しなければならない最も大事なことは、「この信じる仲間、あなたを救ったこの教会こそ神の愛そのものであり、何が あってもこの仲間、この教会を信じてほしい」ということに尽きる。教会以外にもいろいろな仲間はいるでしょうし、大切な家族もあるでしょうが、この教会の仲間、すなわち、神が呼び集め、キリストが真ん中にいて、一人ひとりにまことの命を与え続けている教会の仲間は、この世界で最もかけがえのない真の家族であり、永遠の仲間です。一人ぼっちで神を知ることはできません。自分ひとりでキリストに出会うことはできません。この仲間こそ、神があなたのために用意した仲間です。そうです、この仲間さえ決して見失わずに生きていくならば、あとは神ご自身が、その仲間、そのつながりを通して、ちゃんと働いてくださる。

 キリストの教会は美しい。キリストと一つになって、神の愛を互いに証しする現実の仲間。これは他にはどこにもない、非常に美しい集いです。昨日の土曜の夜の部の入門講座は、いよいよ最終回ということで、最後に一人ひとりの今の思いなども話してもらいましたけれども、20人以上の志願者が神の愛、神の救いについての美しい証しをしてくれました。中には、「今までずーっと、死にたい、死にたいと思っていたけれども、この教会に通い始めてから死にたくなくなりました」って語ってくれた人もいました。想像できますか。ずーっと死にたかったというその思い。なんという深い闇でしょうか。これまでどんな仲間も手出しできなかった、真っ暗な魂の孤独があったわけです。家族もどうすることもできなかった。医者も救ってあげることが出来なかった。そんな、死の闇の淵にいた人が、この教会に出会って死にたくなくなった、今は信仰と希望のうちにひたすら洗礼を待ち望んでいますと、そう言っているのです。これこそ神のわざ、この仲間は本物だ、この教会をいっそう大切にしようと思うのは当然でしょう?
 去年、入門講座に通っていて、途中で来なくなった方もいましたね。どうしたんだろうと思っていたら、今年になってまた現れて、「やっぱりここが帰ってくるべきところだと分かった」と。色々なところで色々な体験をしたようですけれど、昨日は「ここが帰るところだと確信できた」と話してくれました。帰るところ。それは、イエス・キリストがおられるところです。神によって集められた仲間が、キリストの家族として共に生きる教会です。この教会から、もう二度と離れないでください。もちろん、教会だって人間の集まりですから、色々問題もありますよ。なんでこんなに面倒なことが次々あるのかっていうくらいある。でも、そんなことはこの世を生きていく以上当たり前のことで、わたしたちはだからこそ、共に居続けるのです。色々あるのに、なおも仲間が一緒にいるこの現実を見てください。それが家族ってことじゃないですか。これは神のわざです。試練の中でなおも神の恵みを信じ続ける、この美しい仲間たちから離れないでください。

 実はわたし、インフルエンザにかかって、先週ずっと寝ておりました。39度を超える熱が出て、この忙しいときにすべてキャンセルして寝てたわけですが、今この教会には神父や神学生が何人も住んでいますから、すごく安心でしたし、助けられました。神父は独身の一人暮らしですから、本来なら高熱出して寝込むとどうしようもないんですけど、教会っていうチームは家族以上に家族なので、何の心配もない。何があっても大丈夫、いつでもどこでも、信仰の仲間が必ずなんとかしてくれるというこの信頼関係は、やっぱりちょっと天国の香りがするわけです。どれほど予定があっても、「すいません、澤田神父様よろしく」、「李神父様お願いします」、「神学生、入門講座代わりに頼むよ」で済む。その代打の神学生の入門講座がとても評判よくてなんだか悔しかったんですけれども(笑)、どんどん頼むことができる。「申し訳なくて頼めない」とか、頼まれた方も「それは俺の仕事じゃない」とか、そういうこの世的なつながり方と違う。神学生に「ヨーグルト買ってきて」と頼んだら、すぐに買ってきてくれました。もっとも、それがなぜか普通のヨーグルトじゃなくて飲むヨーグルトだったので(笑)、こんなのありかと文句言えば、すぐに買いなおしに行ってくれる。これは神父だから特別というのではなく、教会とはそういうチームのことなのです。
 この不思議なつながり、ただ一点、同じ信仰を持っているというだけで仲間がつながっていて、無条件に一緒にいるというこの現実は、ちょっと天国的じゃないですか。それは血縁の家族以上でしょう。家族よりもっと大きく、もっと柔軟で、永遠。高円寺教会で言うなら、別々に暮らしていても「ヨーグルト買ってきて」と電話したら買ってきてくれる人が1800人いるっていうことです。試してみてください(笑)。きっと、買ってきてくれますよ。わたしたちは、神が集めた仲間たちなのです。もっと現実に助け合い、励まし合い、仕え合って、誰が見ても「ああ、あの集まりは本物だ、キリストの香りがする、あそこならこんなわたしも救われるかもしれない」と思えるような、この世の天国を実現させま しょうよ。キリストの教会こそが、そういう夢のような可能性を無尽蔵に秘めているのに、まだまだほんのちょっとしか実現させていないような気がする。

 我がキリストの教会は、今後千年、二千年の間、そんな新しい家族を生み出す使命を持っています。今までの血縁の家族とか固定的な組織を超えて、天国のような仲間たちで現実に神の国を生み出す可能性に満ち満ちているのです。わが高円寺教会もちょっと本気でチャレンジすれば、もっともっと新たな仲間を呼び、そこに驚くほどの教会の恵みが溢れ出すとわたしは信じています。
 特に、洗礼志願者の皆さん、皆さんは今まで一人ぼっちで悩み、個人的に教会を訪ねてきたわけですが、神はそんな皆さんに仲間を与えました。この仲間を信じて、いっそう天国的に育てていくのは皆さんの使命です。思い出してください。あなたにあの時あの人が一言声をかけてくれただけで、こうして奇跡のような現実がどんどん起こったじゃないですか。可能性は無限です。それを眠らせておいてはいけません。イエス・キリストが真ん中におられて、わたしたちを結び合わせてくれる。そもそもイエスという出来事は、神がわたしたちの仲間になろうとしたという出来事なのです。神が仲間。これ以上何を望めるでしょう。イエス・キリストが真ん中にいるこの仲間は、本当に神の仲間なんです。洗礼を受けるということはその仲間になるということなんです。どんな恐れも争いも、この仲間なら必ず解決できるし、乗り越えていける。

 この二人の盗賊の、イエスから救いの宣言を受けた一人がすごくうらやましい。この盗賊がどんな人生を歩んできたのかは知りませんが、きっと罪の闇に飲み込まれて苦しんできたんでしょう。犯罪者とは、結局は一番弱い人なんですよね。犯罪なんて誰も犯したくないのに、そうせざるを得ないところまで追い込まれてきた一番弱い人。権力者たちは、ある意味その弱い人を犯罪にまで追い込んでおいて、結局は刑罰で排除する。抹殺する。十字架につける。そして犯罪者は十字架の上で、一体これまでの自分の人生は何だったんだろうと、虚無と絶望を味わわされる。さっき、「ずーっと死にたいと思っていた」という人の話をしましたけれど、まさにこの究極の弱者の姿は、わたしたちそのものです。自分の存在そのものに、意味が無い。今まで生きてきたこと、よろこび、苦しみ、すべて何だったんだろうと、死の淵で絶望しているわたしたち。
 そんな闇の底でふと隣を見ると、なんと自分と同じ十字架に、救い主が架かっている。これ、変な言い方ですけれども、最高に運がいいってことでしょう。最もつらいときに最も身近に、しかも同じ十字架に救い主がおられる。彼は信じます。どうかあなたが御国においでになるときはわたしを思い出してください、と。するとイエスが宣言する。「あなたは今日、わたしと一緒に楽園にいる」。
 この「今日」は、こうして共にミサを生きる今日であり、それこそ来週、洗礼の水をかけられる瞬間であり、何よりも闇の底に沈むような試練の日こそ、その「今日」です。「わたしと一緒」とは、このわたしとあなたは仲間だ、という宣言でしょう。同じ十字架を背負う仲間。イエスは、「このわたしを信じたあなたを、仲間と宣言する」と言ってくださっているのです。これはうらやましい。

 ぼくの父が臨終のとき、母は父の手を握って、耳元で聖歌を歌っていました。ぼくはそのことに感動しましたし、その母が臨終のときは、ぼくが母の手を握って、耳元で聖歌を歌いました。それはいいんですけども、ふと思うに、じゃあ、ぼくが死ぬときは、誰がこの手を握って耳元で聖歌を歌ってくれるのか。(笑)神父には妻も子もいない。しかし言うまでもなく、その死の淵の「今日」、この手を握ってくれる方をぼくは知っている。その方を救い主と呼んで信じている。どんな恐ろしい「今日」が訪れても、すぐ隣にいて同じ苦しみを背負い、「あなたは今日、わたしと一緒に楽園にいる」と宣言してくれる方を信じているのです。その方が、この手を握ってくれる。ぼくは、絶対にその手を離さない。その手だけは、決して。イエスがどうしても十字架に掛からなければならなかったのは、わたしたちの仲間になるためです。神はわたしたちの仲間になりたかったのです。そのおかげで、こんなすばらしい仲間が誕生いたしました。この世でどれだけ死にたくても、どんなにさまよっても、帰るべきところはここしかありません。
 洗礼志願者の皆さん、この仲間、わたしたちから離れないでください。皆さんの隣に座っている仲間は、救い主なのです。ヨーグルトを買ってきてくれるような具体的な仲間を通して、神は働きます。来週の復活祭、洗礼式に、皆さんは、わたしたちの仲間になります。キリストの仲間、神の仲間に。

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