晴佐久昌英神父説教
2007年4月29日
復活節第4主日(C)
福音朗読
ヨハネ10: 27-30
<澄みきって響き渡る声>
巡礼旅行から戻り、生きて再びこの祭壇に立つことができて、心から喜んでおります。おおげさなと思うかもしれませんが、こうしてまた皆さんと元気にミサを捧げ、大きな声で「主は皆さんとともに」と宣言できることを、夢に見てたんですよ。というのは、この一ヶ月間、体調を崩して大変な目にあったからです。
ちょうどひと月前にインフルエンザにかかったんですけど、医者がなんだかすまなさそうに「タミフル、どうします?」って聞くんで(笑)、とりあえず「やめときます」と言って飲まなかったんですね。あれを飲めば良かったのかもしれない。そのまま熱が下がらず、そんな中であの枝の主日をやりました。フラフラでしたけども。それ以降、聖週間も微熱が下がらず、あの復活徹夜祭の洗礼式で精魂使い果たし、そのまま巡礼旅行に出かけたわけです。で、向こうでもやっぱり熱が下がらない。毎日解熱剤を飲みながらミサをしてました。最後の三日間はパリのホテルで高熱を発して寝込み、しまいに解熱剤の飲み過ぎなのか、全身に薬疹のブツブツがいっぱい出てきた。赤い発疹が水疱みたいになって、痛くて苦しくて、「ああ、『パリに死す』か・・」とかわけ分からんこと思って。命からがら帰国して病院に行ったら、医者は一目見るなり、「これは水ぼうそうです」。(笑)
つまり、インフルエンザで弱っているときに水ぼうそうに感染して、潜伏期間の間、熱を出し続けながらフランスを回ってうつしまくっていたいたわけです。すぐに隔離され、抗ウィルス薬飲まされました。その後次第に熱も下がり、発疹が収まるまでの週間隔離状態でしたけど、晴れて昨日、全快宣言をいただきました。医者から「もういいですよ。良かったですね」って言われたときは、涙出そうになりました(笑)。それが昨日だったんで、本当に今日、こうして皆さんとミサを捧げていると、「ああ、まことに主のみ名は誉むべきかな」と、心から。
大人になってからの水ぼうそうは辛いって言うけど、実際、苦しかったですよ。頭にも水疱が出来るから、枕に触ると痛くて寝れないんですよね。仕方ないから斜めに寄りかかった姿勢で、枕かかえてウトウト。高熱にうなされてると、自分が元気にミサしていたことなんて夢のようで、洗礼式のことも何度も思い出したし、一生懸命ベッドの上で祈りました。「神さま、早く治してください。またミサを捧げさせてください。元気になったらもっといい神父になります」(笑)。
まあ、「喉もと過ぎれば」の感もありますけども、そのときは真剣に祈りました。司祭として、みんなとともにミサを捧げるひとときは、これはもう何にも代えがたい。それこそ、生きる意味なんです。もう一度だけでもきちんとミサを出来たら、もう文句言いませんっていう気持ち、わかりますよね? ミサにおいてイエス・キリストの救いの恵みが実現し、キリスト者は自分自身の声と体でその実現に奉仕しているわけですけど、なかでも司祭はそのシンボルとして特別に秘跡に奉仕している。これは、司祭のよろこびです。神の栄光、その素晴らしさをこの世界に現実にするために、自分の存在そのものを捧げものとしている。
ぼくはとりわけ、声にこだわりがあります。司祭が真心込めて、だれの心にも響く声で「主は皆さんとともに」と宣言するとき、そこにほんとに主がおられると信じているから。洗礼式のことを思い出していたと言うのは、あの日、90人近くの人に、ぼくは実際にこの声で、「わたしは父と子と聖霊のみ名によって、あなたに洗礼を授けます」と宣言したんだなあ、と思い出していたのです。その宣言は、受洗者を生かす宣言として、天地に響き渡った。ああ、また元気になって、大きなきれいな声でミサを捧げたいとつくづく思っていたのです。
ミサで神の言葉をきちんと語るということは、思いのほか大切なことだと思う。聖堂の一番隅の人にも届くように、くっきりと聞こえるクリアな声で、まごころこめた美しい日本語できちんと神の愛を語ることは、ミサの本質でしょう。ぼくはもともと喉が弱くてあまり大きな声が出ないし、無理するとすぐに声がつぶれてしまうので、人一倍声に気を遣ってきました。一言ひとことをはっきりと、自分の信仰をこめて声を響かせることを心がけてきました。なにか、そういうことが、すごく大事なことのように思えて。
先日、ラジオのインターネット放送でわたしの話をいつも聞いていた人がミサに来て、「その声にいつも癒されてます」って言ってくれましたけど、ナマの声を聞きに来たんですね。で、「あ、ラジオとおんなじ声だ!」って(笑)、思ったとか。そりゃそうだろうと思いましたけど、ぼくはいつでも、自分の声を意識しながら話しています。一人ひとりの心の奥にまでちゃんと届くように、キリストの尊い言葉を一言一句おろそかにしないように。たぶん、神の言葉が現実に聖堂に響くこと、その響きに共振して癒されたり励まされたりすることに、ミサの不思議な力の秘密があるんじゃないか。いつもミサの初めに「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが皆さんとともに」と宣言するとき、ぼくはその宣言を聞いた者にその恵みが実現すると信じて宣言しますし、だからこそ、自分の声が響きわたることに大きなよろこびを感じるのです。
今回の巡礼は、フランスの世界遺産の大聖堂を巡ってきたんですが、どの聖堂でもミサをするわけです。ストラスブールの大聖堂、ランスの大聖堂、みんな世界遺産です。美しい。巡礼団のミサのために通常は小聖堂が用意してあるんですけど、それぞれ特徴があって、特別の感動があります。最後におとずれたのが、アミアンの大聖堂。フランスの世界遺産としては、モン・サン・ミッシェルとともに最初に登録された聖堂で、フランスの聖堂の中でも最も美しいゴシック建築です。ぜひいつか訪ねてください。パリの北、車で一時間ほどのところです。
そこで最後のミサを捧げようとしたら、連絡ミスで聖堂の予約が入ってなかったんですよ。どの小聖堂にも鍵がかかってる。困り果てていたら、現地の日本人ガイドが、まじまじと「この真ん中の祭壇が空いてますよね」って言う。真ん中というのは、大聖堂のど真ん中の豪華絢爛の大祭壇。(笑)そうだよね、空いてるんだからいいよねと、試しに大聖堂の担当者に「わたしたちはこの中央祭壇を予約したんです」って言ってみたら、びっくりして、「そんな重要なミサでしたか」(笑)。慌てて全部ロウソクつけて、ミサの準備してくれました。多分、アミアン大聖堂始まって以来じゃないかな、真ん中の大祭壇で日本語のミサをいたしました。ステンドグラスから朝陽差し込む大聖堂の隅々にまで、日本語が響き渡りました。「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが皆さんとともに」。日本語のミサ、やっぱり美しいと思う。母国語だから当たり前ですけど、ちゃんと理解できて心に届く、命の言葉は美しいという意味で。この世に、それさえあれば生きて行けるという言葉が、現実にあるのです。
今日の福音ですけど、「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける」ってイエスが言う。よく思うんですけど、イエスってどんな声してたんでしょうね。きっと、とてもいい声だったと思う。よく通る大きな声だったんじゃないかな。何千人と言う大群衆に向かって説教をしていますし、ヨハネ福音書には神殿で大声を張り上げて叫んだ、なんていう記述もある。力強く、澄みきって響きわたる声だったのでしょう。何よりも、人を包み込んで癒し、その人のいちばん深いところまで届いてその人を生かす、救い主の声だった。
しかもそれは、名だたる演説家や宗教家のようにカリスマのある声だとかいうレベルじゃなくて、天の声だったはず。本人が「わたしと父とは一つである」って言ってるんだから、イエスの声は、神の声なんですよ。つまり、わたしたちは、人間の耳で神の声を聞くことが出来るのです。これがキリスト教です。誰もがそれを聞くために生まれて来たという、神の声。それさえ聞けばもう何も恐れる必要のない、神の声。イエスはそれを響かせるためにこの世に人として生まれ、この世で神の言葉を語って全ての人を救ったのです。そして、その神の声はイエスの死で消えてしまったのではなく、復活の主の声として人類の歴史の中に響き続けている。その声は今も全教会の中で響き続けてきているし、全てのミサがキリストの声そのものなのです。司祭が一生懸命、心を込めて美しい声で神の愛の言葉を響かせようとするのは、救いの本質に関わることだからです。
イエスの声は本当に美しい声だったと思うし、天国に行ったら、その深く澄みわたる声を聞けるんでしょう。だけど、考えてみたら、わたしたちはガリラヤ湖畔に響いた生前の声を直接聞かなくても、それ以上に尊い復活のイエスの声を聞いているはず。洗礼を受け、聖書を読み、ミサでキリストと一つに交わっている人たちは、もうイエスの声を聞いている。教会自体が、イエス・キリストの声なのです。「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びない」。
わたしたちも、このキリストの声を聞き分けましょう。世にいろんな声が響いておりますけれども、聞くべき声は一つです。政治家の声、評論家の声、様々な議論、いろんな忠告、世にあらゆる声が響いていますけれども、わたしたちが本当に聞くべき声は、永遠の命を与えるキリストの声のみです。そして、信じるわたしたちはその声をもう聞いている。人間の言葉はいい加減です。人間の言葉には限界がある。ときに迷わせる。ときに争いを生む。そういうあまたの人間の声の向こうに、キリストの声が響いています。その声をわたしたちは聞き分けます。なかでも、その声はキリスト自身であるこのミサの中に特別に響いているし、今日わたしたちは、その声を聞きに来たのです。「彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない」。さっき、李神父さんが美しい日本語で、一生懸命読んでくださいました。その声は救い主の声でしたし、わたしたちは、その声を確かに聞きました。永遠の命に導く声。
今から幼児洗礼式が行われます。ひとりのお子さんが、生涯をキリストのミサとともに生きていく出発点です。今、子どもの耳に、キリストの声が届きます。「わたしは父と子と聖霊のみ名によってあなたに洗礼を授けます」と、司祭の声が響くとき、それはキリストの声です。
洗礼を受けるお子さんと両親、代父母の方は前に進んでください。
Copyright (C) 2007 晴佐久昌英
2007年4月
07-ホーム
携帯サイトホーム