晴佐久昌英神父説教
2007年6月3日
三位一体の主日(C)
福音朗読
ヨハネ16:12-15
<言うんだ! そこで言うんだ!>
楽しみにしていた教会報の6月号が出ました。今年の受洗者全員の喜びの言葉が載っています。毎年、受洗者全員のコメントを載せてほしいとお願いしていますので、編集部員は原稿を集めるのに大変な思いをしてまいりました。その筆頭の鬼のような部員(笑)は、今脳梗塞のため療養中ですけど、彼女の執念がみんなに乗り移って、今年もついに全員載りました。89名の感動、感謝、喜びが、9ページにわたって載っておりますので、ぜひお読みください。その一人ひとりに尊い出会いがあり、気付きがあり、決心があり、つまり神の働きがあるわけですから、その文面の奥にあるものを感じながら、丁寧に読んでいただければと思います。
ぼくがこの「全員」にこだわるのは、受洗者は一人残らず神のみ業の表れであり、神の栄光が89人分そろってこの教会を飾り、この世界を飾っているからです。美しい教会報だと思いますよ。何ページにもわたって、そんな神の栄光が並んでいるんですから。その一人ひとりに、神は「あなたを愛してる」って宣言したのだし、一人ひとりがそれを聞いて受洗したのだし、その事実がまた誰かの救いを生んで行く。それこそ真理の霊の働きです。読んでみてください、その一つひとつの喜びに励まされます。思えばその人たちだって、誰かから福音宣言を受けたからこそ、その文章を書けたわけです。その人にとってそれは生涯忘れられない宣言でしょう。ならば、自分もまたそのひと言を誰かに宣言したくなるはずです。
もっとも、読んでいくと、中には「晴佐久神父から信仰をもらいましたけれども、インフルエンザももらいました」(笑)っていうのがあって、ごめんなさい、洗礼式でうつしちゃったんですね。聖週間は高熱出してましたからねえ。まあでも、司祭の体で培養された聖なるウイルスですから(笑)、摂理と信じてありがたくいただきましょう。そういえば、信仰って感染に似てますよね。誰か現実の人間から感染する。誰もそのウィルスには抵抗できないし、本人が知らない間に人にもうつしていく。それはもう、神の恵みは強烈な感染力を持ってますからどんどん広がっていくし、そうして高円寺教会はこの春89人を迎えたわけです。その89人には、この日本の一億人の未信者に感染させていく使命がある。・・・うーん、「感染」っていう例えがやっぱりちょっと悪かったですかね(笑)。これじゃみんな被害者ですもんね。思いつきの例えはうまく広がらない。言いたいことは、主が送ってくださった真理の霊によって、福音をどうしても宣言したいっていう熱い思いが生まれ、その熱い思いこそが相手に伝わるっていうことです。
その教会報の巻頭言に、「宣言力」っていうタイトルの原稿を書きました。最近キーワードにしている言葉です。「人を救う言葉を、神の愛と権威によって、その時その場で明確に宣言する力」のことです。大切なときに大切なひと言を、相手の心に届くように真心を込めてきちんと宣言する力、すなわち「宣言力」。「老人力」とか「鈍感力」とかいう本があるけど、ぜひいつか「宣言力」っていう本を書きたいくらいです。本当に大切なのに、今の世の中で最も欠けている力です。
みんな説明とか弁解とか議論とか、言葉をいっぱい口にしているけれども、人がその口で語るべき最も大切な言葉は、宣言なんです。キリストから受けた宣言を信じて自分も宣言する。それさえちゃんと出来たら、「死ぬに死ねる」と言っていい。なぜなら、生まれてきた意味はそこにあるから。そんな宣言をぼくらはもう聖霊の働きによって受けているはずです。素晴らしい宣言力を持った宣教師や、弱さと苦しみの中でなおも宣言する一人のキリスト者を通して。
宣言って言っても、そんなに難しい話じゃない。勉強しなきゃ言えないことでも修行しないと言えないものでもない。たとえば、子どもがいじめられてすごく恐れているときに、父親がひとこと言う。「だいじょうぶだ。心配するな。父さんがついてる。必ず父さんが守ってあげるから、恐れるな」。そういう宣言を受けたら子どもは本当に安心して救われる。あるいは、すごく成績が悪くて苦しんでいる娘に、母親がひとこと言う。「だいじょうぶよ。なんにも心配いらないわ。母さんがついている。どんな成績だろうと母さんはあなたが大好き。必ずあなたはしあわせになれる。あなたがどんな失敗をしようとも、何を言われようとも、母さんが愛しているのはあなた自身であって、あなたの点数なんかじゃない」。そう言って抱きしめてあげれば、子どもにとっては、生涯を支える宣言になるでしょう。一度でもそんな言葉を聞けたら、もう何の心配もなくなるじゃないですか。
そういう言葉をだれもが聞きたがっているのに、わたしたちはいつも逆のことばかり宣言してる。どうしてかと言うと、天の宣言をちゃんと聞いてないからです。「だいじょうぶだ、わたしが守る」とか「あなたのままで愛してる」という宣言を聞いていないからです。だからこの世の相対的な基準で宣言しちゃう。それは「宣言」ならぬ「宣告」でしかない。そりゃあこの世では成績いい方がいいだろうけど、天はそんなこと言いませんよ。天は、罪人だろうが0点だろうが、「わたしはあなたを愛してる」って宣言してるんだし、人はその宣言によって救われるのです。だからそのひと言を自分の大事な人に宣言するのも、実は義務でも理想でもなく、真理の霊の働きによるものであり、自然にそうしたくなる愛の行為であり、そういう宣言が出来て初めて、真に自分の救いも完成するんじゃないですか。
こういう説教をすると、もうその日のうちに宣言すべき相手が現れるんですよね、不思議なことに。神が出会わせてくださる。「ああ、この人のことだ」「今、この一言を言えばいいんだ」っていう恵みの機会をくださる。そのとき、聖霊の働きを信じて口を開けば、「だいじょうぶ、信じましょう。神は必ずあなたを救ってくださる」と宣言できる。ごく自然にあふれ出てくる。
今日は三位一体の主日ですが、三位一体っていうのは、ただ抽象的に存在するのではない。あくまでも具体的に人を救うための愛の交わりです。つまり、神はどうしてもわたしたちを救いたくて、「三位一体の神」としてわたしたちに関わっておられるのです。天の父はすべてのわが子を愛しているから、あふれんばかりの親心でわが子に「愛してるよ」と宣言なさいました。その宣言がイエス・キリストであり、そのあふれんばかりの親心が聖霊です。父とキリストと聖霊は一つであり、永遠なる三位一体の愛の交わりです。その愛に包まれていれば、わたしたちも宣言できるのです。その力はすごいですよ。三位一体の交わりからあふれ出る宣言ですから、圧倒的な効果をもたらします。それはもう、口を開いてくれれば分かります。
ここ数日、テレビでエイズの子どもたちの特集をやってたんですけど、毎日それを見て、胸が苦しかった。パプアニューギニアの子どもたちの現状を、番組の女性キャスターが視察に行くわけです。援助の手も届かず、置き去りにされている空白地域だという解説でした。多くの少年少女たちがHIVに感染しているのに見捨てられている状況です。
一人の少女はエイズが発症して、家族からも捨てられ、本当に痛ましい状況でした。でも、そこにもちゃんとカトリック教会があり、シスター方がそんな子どもたちのケアをしているんですね。その少女がミサで一生懸命祈る姿も映されてましたけど、その少女が言うんですよ、「わたしは、神さまが守ってくださっているからだいじょうぶ!」って。泣けました。そこに、ちゃんと宣言力のあるシスターたちがいるんですよ。だからその少女も信仰を宣言できるんです。
わたしたちの身近にも、神の宣言を必要としている少年少女がいっぱいいるはず。その子たちに我々がちゃんと宣言して、その子が「わたしは、神さまが守ってくださるからだいじょうぶ!」って言える日を夢見ましょうよ。やっぱり言葉は偉大ですよ。イエスが「み言葉」だというのは、なんと言ってもそれは、ちゃんと人間の言葉で神の愛を宣言したからでしょう。援助のお金も大切ですけど、それと同時に、神の愛を宣言すべきです。そのひと言が、語ったわたしをも救うんです。
番組では、そんな宣言に出会っていない少年も紹介されてました。教会も知らないし、それどころかひどいんですよ、家族に声もかけてもらえないんです。感染を恐れて隔離され、同じ敷地内の小屋に住まわされている。小屋って言っても吹きっさらしで、雨が吹き込む。雨の日は毛布を被って寝るわけです。しかも、母屋でみんなが食事をしているのに、まともな食事も与えられず、じっと遠くからそれを見ているんですよ。その悲しそうな横顔の映像に、胸えぐられました。
家族には家族の言い分があって、極端に貧しい地域ですからどうすることも出来ない。近所の偏見もあって隠さなきゃならないので、親は「あの子に関わるな」と兄弟たちに命令する。だから彼は幽霊のように存在しているんですね。少年が通り過ぎても家族は全く無視するんですよ。彼は存在していないんです。その孤独、わかります? この前までは一緒に遊んでいた普通の家族だったのに。
取材ですから、その女性キャスターは少年に親切に関わって、話を聞いたりするわけです。そうすると、だんだん仲良くなるんですよね。何日も通ってるうちに。でも、日本に帰るわけでしょ? 取材が終われば。当然、別れの日にその子が泣くんですよ。「今まで誰も話を聞いてくれなかったけど、あなたが聞いてくれた」「あなたが来てくれた日々は幸せだった。でも、あなたはもう帰ってしまう」。中学生くらいのその少年がそう言って泣くんですよ。すると、女性キャスターも感極まって「ごめんなさい」なんて言って泣き出す。ぼくは思わず「なんか言え! そこだ! 今だ! 宣言だ!」って身を乗り出しました。でも、彼女はただ泣くだけ。
取材もいいけれど、まずは現実に目の前で死ぬほど孤独を味わっている人に、その時きちんと宣言すべきことがあると思うんですよ。泣くのもひとつの愛情表現ですけど、そんな時こそ「宣言力」を発揮して欲しいんですよ。だから思わずテレビの画面に向かって言ってたんです。「言うんだ! そこで言うんだ!」って。でも、彼女は泣いちゃって、謝るばかり。仕方ないですよね。福音の宣言には、信仰が必要ですから。キャスターは逆に少年に慰められて、番組は終わっちゃいました。画面では去っていく車窓の風景にヤシの木かなんかが流れて、「わたしは、何もできない自分を悔しく思いながら村を後にしました」とか、ナレーションが入る。
ひと言、こう宣言できたら。「もうだいじょうぶよ。神はあなたを愛している。だからわたしとあなたを会わせてくれた。その神を信じて。病気を恐れないで。希望を捨てないで。これからあなたは必ず幸せになれる。あなたのために出来る限りのことをさせてほしい。必ず戻って来るから信じてほしい。あなたを愛してる」。
そんな宣言からすべてが始まることを信仰者は信じています。それは、真理の霊から来るひと言だからです。「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである」。
言うべきときに言うべきことを言わないと、宣言のチャンスは二度と来ません。
今日、口を開いてください。語るのは真理の霊です。
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