晴佐久昌英神父説教
2007年6月10日
キリストの聖体(C)
福音朗読
ルカ9:11b-17
<はずしていた結婚指輪を>
雷が鳴ってますね。昨日の夜遅くも、すごい豪雨でした。
昨夜、ベッドの中で雨の音を聞いて突然思い出したことがある。小学校1、2年生の頃だったか、雨がザーザー降っていて、夕方、ぼくはひとりぼっちで家で留守番をしてた。退屈だったからでしょう、妙なひとり遊びを始めたんです。靴下を、手を使わずに履くというチャレンジ。(笑) やってみればわかりますが、非常に難しい。時間が掛かる。こう見えて結構意地っ張りなので、なんとか足の指でつまんで片足は履けたけど、もう片っぽが難しい。なぜなら、片足履いてしまったら、指でつまめない。(笑) それでもこの意地っ張りはあれこれ工夫しながらついに履いたんですよ。するとその途端、すぐ後ろで拍手が起こった。(笑) 雨の音で聞こえなかったんですが、両親がいつの間にか帰ってきて、息子の妙なチャレンジをじーっと見てたんですね。びっくりして振り返ったら、両親がニコニコ笑って、顔を見合わせている。いたずらっこみたいな顔している父親と、なんだか嬉しそうな母親と。そんな二人に、いつの間にか見守られていた。
こういう感覚は、ぼくにとっての神のイメージでもある。自分が知らない間も、ニコニコ見守っている神。自分のことで頭いっぱいで、泣いたり笑ったり、ひとり遊びをしたり二人で争ったり、勉強したり仕事したり・・・ 自分のことで頭いっぱいになっているときに、神がニコニコ見守ってくれているという感覚。
この感覚において重要なのは、それをぼくは知らない、というところ。親心っていうと親が目の前で色々してくれるっていうイメージが強いけれど、実は本当の親心って、子どもが知らないとき、気付いていないことでこそ発揮されてるものなんですよね。去年、母が亡くなったとき遺品を整理していたら、わたし名義の病気の保険証書が出てきてびっくりしました。ぼくが知らない間に、内緒でぼくにがん保険をかけていたんですよ。(笑) そんなこと一度も聞いたことない。恐らく自分ががんだったこともあって、もしも息子もがんになったら充分な治療が受けられるようにって思ったんでしょう。年金暮らしだったのに、ちゃんと毎月払い込んである。涙出そうになりました。子どもは全く知らないのに、親が現実に愛を注いでいる。気が付かなかったら、知らないままだったかもしれない親の愛。
自分がなにも知らなくても、神は何もかもちゃんと自分の為にしてくれているという感覚は、信仰の基本です。すごく大事な感覚です。目の前で色々してくれる親に感謝するのも良いけれども、子どもの与り知らぬところでちゃんと配慮してくれている、計り知れない親心にこそ信頼すべき。・・・ そうです、摂理は、計り知れないのです。神のみ心の深みは、誰にもわからないのです。わかるはずもないし、分かる必要もない。
福音書では、群集みんなが食べて満腹しましたけれど、果たしてこのうちのどれだけの人がイエスのわざの本質を知っていたでしょうか。そのパンがどこから来たかなんて、群集にとっては大きな問題ではなかったはず。そこにはただ救いが実現してよろこびがあふれたわけで、イエスは感謝も賞賛も求めていません。群衆は親心を知りません。みんなのよろこびが、神のよろこび。それだけです。
数日前に相談に来た方にも、お話ししました。「摂理を理解しようとしてはいけません」と。その方は、愛する親の死を受け入れられずにずっと苦しんできた方なんですけど、理不尽な死に傷つき、その死がどうしても納得できないと言う。もうこの世界の意味が理解できなくなった、こんな世界から離れたいとまで言う。それでわたしは、ちょっと厳しかったんですけど、はっきり申しあげました。
「あなたはそうして、受け入れられない、納得できない、理解できないと言うけれど、それらはすべてあなたの受容、あなたの納得、あなたの理解だ。そんなものは信仰とは無縁です。神の思いを知ることなんて、誰一人できない。み心は、信じるものであって、理解するものではありません。」
摂理というものは、計り知れないから摂理なのです。いいですよね、“計り知れない”って言葉。人間には計れない。人間には知りえない。けれども、神は全てわかっている。わかっているから、一番良いことをしてくれる。それをわたしたちは信じます。それが信仰ということではありませんか。神がわれわれには計り知れない恵みによって創ったこの世界、産んだあなた、出会わせた家族・・・。その家族が神のみ心によって召されたからといって、その意味が理解できないからこの世から離れたいなんて、あなたは何様だ、ということです。
わたしが気が付かない間も、両親は後ろでニコニコ見守ってくれています。それに第一、いつも後ろにいるわけじゃない。普段はちゃんと目の前でご飯を作ってくれているじゃないですか。それがイエス・キリストであり、教会であり、ご聖体だということです。今日、初聖体の子供たちが口にするご聖体は、神さまのそんな直接の恵み。あまりにも分かりやすい、目に見える親心のしるし。
お手元のパンフレット、「聖書と典礼」のエッセイをご覧ください。普段はここ、説教が退屈だからと読んだりしないでくださいね。(笑) でも、今日はわたしが書いているので、せっかくなので読みましょう。
「司祭に叙階されて初めてミサを司式し、ご聖体を信徒に手渡したときの感動は、忘れられない。『ああ、このわたしが、自らの口で「キリストのからだ」と宣言し、自らの手でキリストの体を渡している!』。神は、すべてのわが子を救うためにご自分の愛を直接わが子に与えるという、これ以上はない尊いわざを実現してくださった。それが、イエス・キリストという出来事であり、教会という恩寵であり、ミサという秘跡であり、ご聖体という救いの現実なのだ。つまり、司祭がその手でご聖体を信徒の手に、初聖体の子どもの手に渡すとき、神は深い愛をもって、その人に『直接』触れている。そのような尊い『直接』のために、こんなわたしを選び、ご自分の手としてくださった神にひれ伏す思いで、以来二十年、この手で神の愛を渡し続けてきた。ひとつたりともいい加減な気持ちで渡すまい、という決心のうちに。渡す相手の目を見ながら『キリストのからだ』と宣言するとき、心に沸き起こってくる思いがある。(よかったね)(辛かったね)(もう大丈夫だよ)安心と感謝の溢れる『アーメン』を聞き、手から手へとご聖体を渡すとき、心に響くイエスのことばがある。(あなた方が彼らに食べ物を与えなさい)。イエスは、ご自分を渡す。渡された弟子は、人々にイエスを渡す。渡された人々は、出会うすべての人々にイエス・キリストを、すなわち神の愛を渡す。ご聖体をその口にした信徒は、神の口となり神の手となるのだ。さらに二千年後、想像も及ばぬ程に情報通信技術が発達した時代になっても、カトリック教会は聖なるミサを捧げているだろう。二千年後の司祭も、(よかったね)という思いで信徒の目を見つめ、『キリストのからだ』と宣言し、手から手へと直接いのちのパンを渡しているだろう。ミサは、わが子を抱きしめる天の父の手そのものなのである」。
今日、聖体の主日に、その手のぬくもりを感じます。神はいつだって見守っているし、われわれが知らない間も全てを与えてくださっている。その知らない間の全ても含め、ご聖体としてわたしたちに触れてくださる。わたしたちはただそれを信じて、アーメンと言います。受け入れられないこと、納得できないこと、理解できないこの不条理な現実の中でも、神は全てわかっていて全てちゃんとしてくださっていると信じて、アーメンと言います。そのときこそ、この上ない安心がそこに生まれる。神は、一番良いものをくださるに決まってるじゃないですか。今日初聖体を受ける子どもたちは、生涯で一番良いものを口にすることになるのです。
いつか、脳梗塞で倒れた47歳のご主人の話をしたと思います。働き盛りで倒れて死にかけ、本当に辛い思いをしてリハビリを続け、なんとか半年経ったときに、どうしても晴佐久神父に会いたいということで、病床に行った話しです。そこで彼は、神父を証人にして妻に愛の告白をしたわけですけど、それはわたしにとってもスペシャルな体験でした。彼は不条理な病気で苦しんで絶望して、しかしそんな中で、最も大事なことを見つけた。彼はそれを神父を証人に話しましたし、妻に愛の告白をしました。「お前に会えてよかった、お前ほど素晴らしい女性はこの世にいない。お前のおかげで生きることが出来た。お前を本当に愛している」。心からの宣言に奥さまも本当に感動しておりましたし、わたしはそこで、「お二人を神が祝福しています。あなたたちは神に愛されています、全て失ったかのようで一番良いものをもらっています」と、宣言いたしました。
実は、昨日その奥さんが教会に来て、二人で洗礼を受けたいと言ったのです。リハビリが進んだら、この聖堂で洗礼式を、と。うれしかったなあ。・・・ 楽しみです。わたしはそれで、洗礼式もいいけれど、さらに結婚式もしましょうと提案したら、奥様、すごく喜んでくれました。ちなみに、二人で洗礼を受けた夫婦は、改めてカトリック教会での結婚式を挙げることができます・・・ あ、でもあんまり申し込まないでくださいね。(笑) この二人は特別です。だって、倒れたときは医者がもう助かりませんって言ったんだから。どれほどの絶望があったか。そしてどれほどの祈りがあったか。そんな二人が、病気によって生まれ変わり、奇跡のように癒され、洗礼を受け、神の前で感謝して愛を誓い合う。・・・ 夢のようじゃないですか。奥さんは、「それじゃあそのときに、はずしていた結婚指輪をまたはめます」って言いました。彼が検査や手術のためにはずしていた指輪を、その結婚式で再びはめたいって言うんです。わたし、泣いちゃいますよ、目の前でそんなシーン見たら。
それは二人のしていることではない。神のわざです。脳梗塞なんて、だれも受け入れられないし、納得できないし、理解できません。なんで病気になるのか、誰にもわからない。最後までわからないでしょう。けれども神のわざを信じることはできる。神は、パンがなくとも、飢えを満たすことが出来るお方。目に見えるしるしでご自分の愛を示してくださる方。わたしたちは、その愛を信じます。
さあ、子供たち、難しい話はもう終わり。もうすぐ、皆さんの手に世界で一番素晴らしいものを渡します。それを食べた瞬間、皆さんの中に、一生消えることのない、神のわざを信じる心が宿ります。理解は出来なくとも、信じる心。
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