晴佐久昌英神父説教
2007年7月8日
年間第14主日(C)
福音朗読
ルカ 10:1−9
<わたしという出来事>
この、イエスが任命した72人というのは、皆さんのことです。主が皆さんを遣わしました。大事なことは、あなたが自分で行くんじゃない。主が遣わしたのだ、ということです。皆さんは「遣わされている」存在なのです。そうであるなら、もはや「わたしの生きる意味は何か」とか、「何のために存在しているのか」なんて考えないで済むわけです。たとえ考えたって、答えは一つなんだから。「わたしは主に遣わされた者である」。これだけ。
でも、それって、安心ですよね。うれしいことです。主が遣わしたんだから、責任は主なんだし、主のなさっていることなんだから、絶対うまくいく。そんな信頼の中で、安心してやっていきましょう。主に遣わされた人生を。そうです。どこに遣わされたかというならば、自分の人生に遣わされたのです。宣教師と違って、皆さんはどこか特定の場所に宣教に行くのではない。自分の人生という宣教地に派遣されたのです。自分の人生のすべての場所、すべての出来事、すべての出会う人に、派遣された。それは主がなさっていること。
ですから、ここでイエスが言っている、派遣されるにあたってのさまざまな心構えは、皆さんが皆さん自身の人生を生きていくための心構えなんですよ。「財布も袋も履物も持っていくな」とか、「狼の群れに小羊を送り込むようなものだ」とか。何も持たず、無防備でも、わたしが派遣するのだから恐れるな、あとからわたしが行くから大丈夫だと。イエスはそう励ましている。行けばちゃんと飯は出るから問題ない。あなたはただ、信じてそこに行きなさいと。
行ったらまず、祝福する。「神の平和があるように」と。それから、病を癒す。イエスの力でね。そして「神の国はここに来ている」と宣言する。すると、本当に神の国がそこに実現し、人々が救われる。すごいことでしょ。「主はご自分が行くつもりのすべての町や村に先に遣わされた」ということは、皆さんが遣わされた皆さんの人生自体が、イエスが行くつもりの目的地だということです。皆さんが信じるならば、どこにいようとも、そこがイエスの場所になる。
司祭生活も21年目になりました。わたしも主に遣わされたと信じてやってきたつもりですけど、相変わらず、恐れに囚われている。「無防備でもいいんだ、何も持ってなくていいんだ、弱くてもいいんだ、あとは神が働くんだから」と信じて福音宣言してきたつもりです。つもりなんだけれど、何だか恐れていて、どこか臆病。もうすぐ50歳ですけど、そろそろ、さっきのパウロの言葉で言うなら「新たに創造されるとき」が来てるはずです。
それを確信させられ、励まされたことがありました。先々週の日曜日の夕方、当教会の青年が3、40人集まって、わたしのためにミサを企画してくれたんですよ。主任司祭の霊名のお祝い日が近いということもあって、ミサのプレゼントをしてくれたわけです。しかも、内緒で準備していたので、驚くやら、うれしいやら。だいぶ前に、青年たちが自分たちで企画して手作りのミサをやってみたいと言いだして、李神父司式でやるけど主任司祭も共同司式してほしいと言われ、なんか変だなあとは思ってはいたものの、まさかミサそのものがわたしのためとは思っていなかったので、感激しました。
この教会に来てからいつもミサの大切さを語り、心込めてミサを捧げてきたつもりですが、そのようなミサで育てられた青年たちが、主任司祭の霊名のお祝いに何が一番いいだろうかと話し合い、ミサが一番だと思ってくれたということが、どんなプレゼントよりもうれしかった。すでに色々とわたしにプレゼントしてくれた方には申し訳ないですけれど(笑)、わが生涯最高の贈り物をもらったと、掛け値なしにそう思えた。だって、ミサ以上のものはこの世にありませんから。ミサはイエスそのものでしょ。最高の贈り物です。
自分たちで計画して、長い時間かけて準備し、丁寧に祈りを作り、第一朗読として、晴佐久神父への思いを誠実に一生懸命語ってくれた人もいた。うれしくて、こみあげてくるものがありました。「ああ、自分が遣わされた自分の人生で、自分に働く力を信じて精一杯やれば、ちゃんとそこにイエスが来て神の国が実るんだ」ということを目の当たりにした思いです。聖堂がみんなの言葉と絵で飾ってあり、歌もよく練習してあるそのミサに本当に励まされた。ミサの最後に、何かひと言と言われたので、感謝の気持ちで言いました。まずは「今度の説教ネタをありがとう」と。(笑)そして、ある告白をしました。
わたしですね、去年あたりから、どうも体調がおかしかったんです。去年夏、パリで少し癒された話もしたと思いますけど、要するに疲れていた。ストレスが溜まっていた。今まで自分はストレスがない人間だと思いこんでいたし、「ストレスのたまる神父なんて、信仰がないからです」(笑)なんて豪語してましたけど、不適切な発言を撤回します。(笑)ストレスがない人間なんて、ありえませんよね。ずっと恵まれた環境にいたおかげで、ストレスには無縁のように振舞えていただけで、実際には当然ストレスがあるわけです。
で、最近思うに、たぶんぼくのストレスは、「有名になっちゃった」ことです。世の中には有名になりたいっていう人もいるけれど、ぼくのようなタイプには最も苦手なことなんです。人前で注目されることほどストレスなことはない。この数年は名前が一人歩きして、本人がついていけなくなりました。たいした人間じゃないのに期待ばかり膨らんで、到底それに応えることが出来ない。そんなこと、本人が一番よく分かっていることです。なのに、例えば李神父なんかは、「晴佐久神父様は、韓国で一番有名な日本人神父です」(笑)とか追いつめて来る。遠くから来て、「一度お会いしたかった。握手してください」(笑)とか、本当に苦手。この前も「長崎から来ました。長崎ではみんな晴佐久神父様の話をしてます。どんな人か会いに来ました」っていう方が来て、ぼくは引きつった笑顔で応対するわけです。握手しながら、どうしよう、何かありがたいこと言わなくっちゃ、せっかく来たんだから期待に応えなくっちゃとか緊張し、するともう、言葉が出てこない。思わず「長崎のカステラおいしいですね」(笑)とかバカなこと言って死ぬほど後悔しながら、あとは冷や汗と沈黙。
そんなことが積み重なって、疲れていく。ぼくは人々にイエスに会ってほしいし、キリストを宣言したいのに、目の前の人はぼくと握手をしようとする。「ぼくはどこかで何かを間違えている。これ以上、期待に応える神父を演じることはできない」。そんな思いの中で体調が悪くなり、「最近、お疲れですね」とか「顔色悪いですよ」とか言われることが増えてきました。
青年たちのミサの最後に告白したのは、そのことです。ずっと疲れていたと正直に告白して、だからこのミサで本当に励まされたと感謝しました。ミサ中、「ああ、今、神が直接語りかけてくださっている。こうしてこんなにも分かりやすく、最も美しいしるしでぼくを救ってくれている」と、まっすぐに、あまりにもリアルに、感じていたからです。ぼくは、ミサに救われました。
もうそろそろ「新しく創造」されなければなりません。わたしは、わたしの人生に遣わされたんだから。それはわたしがどうこう言うことじゃない。ストレスから解放される唯一の方法は、現実から逃げることではなく、現実を受け入れることです。ぼく、もう決めました。有名だろうが無名だろうが、どうぞ好きにしてくれ。わたしはわたしに与えられたわたしを生きるだけで、あとはどうなろうと知ったことか。誰に何を思われてもかまいません。小羊のように自信のない無防備の状態で、神の国がここに来ていると宣言し続けます。そうしろと命じてイエスが遣わしたんだから、あとはイエスの責任です。
そのミサのおかげで決心して、翌日、病院に行きました。実は、水疱瘡のあと一週間は調子よかったけど、すぐに胃の調子が悪くなっていたんです。吐き気がして、ムカつきが収まらない。そして、母の死後、精神的に弱っていたせいもあって被害妄想のようになり、ついには思い込んじゃったんですね。自分は胃癌なんだと。(笑)笑われて当然ですけど、そういうこと、ないですか? 本当にそう信じこんじゃうこと。胃の中にもう癌がいっぱい広がっているんだと信じ込みました。母の死後、自分にも悪いことが起こる予感はあったけど、そうか、癌か。もう終わりか。ああ、やっぱり親父と同じ50歳で死ぬのか・・・。だんだん元気なくなるし、前向きになれず、何もかも片手間な感じで過ごしていたこの二ヶ月。不信ですよね。罪です。怖くて医者にも行けない。そんな状態だったので、ミサで救われて、決心して医者に行きました。
病院で、生まれて初めて胃カメラを飲みました。緊張しましたけど、医者は、胃カメラの映像を見ながら「きれいな胃ですねー」。(笑)「ストレスで胃がちゃんと働かなくなってるんですよ。なんでもありません。漢方薬を出しておきましょう」。そう言われて病院出て、歩いていたら本当にさわやかで、胃もすっきり。(笑)その話をしたらある神学生に、「そんな悩みは自分みたいに胃の病気で苦しんでいる人に失礼だ」と叱られましたけど、確かに失礼だなと思う。天の父の慈しみに対して。ぼくに必要なのは、恐れの霊から解き放たれて「新たに創造される」ことなんです。もういいです。どうぞ好きなだけ有名になってください。わたしは、ミサで救われました。だからミサで人を救います。
2週間前の信者講座で、講師のシスターがわたしの母の生前のひと言を紹介してくれました。ここでも紹介します。母の遺言として心に刻んでいただければありがたいです。病に苦しみ、不安と恐れの中で精一杯生き、死を目前にしながら、母がそのシスターに語ったというのは、こういうひと言です。
「わたしは、わたしという出来事を生きる」。
わたしという出来事。それはどんな出来事であれ、神が与えた出来事です。自分でその出来事を作ることはできない。誰も変更することができない。それは神の愛による出来事なんだから、すばらしい出来事なんだ。良い出来事なんだ。わたしは、それを生きる。痛くて不安で、とても受け入れられないことであっても、わたしは、わたしという出来事を生きる。これは、信仰宣言です。「出来事の主」への全面的信頼です。母がそう生きたんだから、息子もそう言わなければいけません。イエスの弟子として生きていればいろんな出来事があるけれど、それらはすべて、やがてイエスがそこへ行って働くための準備の出来事なのです。わたしはただただ「わたしという出来事」を生きればいいのです。
皆さんは、皆さんという出来事を生きてください。それは、神の国という救いの出来事の一部分なのです。今日起こっていること、明日いただくこと、すべて神がくださること。それは本当にすばらしい出来事なんだということを、神の国の完成の日に知ることになるでしょう。
「敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなた方に授けた。だから、あなた方に害を加えるものは何ひとつない」。イエスの宣言です。