晴佐久昌英神父説教
2007年7月15日
年間第15主日(C)
福音朗読
ルカ 10:25−37

<共感のキリスト>
 昨夜、寝入りばなに電話がかかってきました。新宿でみんなで飲んで盛り上がっていると。そんな電話なら珍しくないけれど、これがなんと30年前、ぼくがまだ学生だった頃に教会でリーダーとして世話していた高校生たちでした。
もう今はみんな40代ですけど、久しぶりに集まって、仕事のこと、家族のことを報告しあったようです。みんなそれぞれ、その後の人生は大変なわけで、「なんでこんなに辛いことばかり続くんだろう」「どうしたら抜け出せるんだろう」「厄払いしてもらうしかないね」なんていう話になったとたん、「そうだ、晴佐久神父に電話しよう!」(笑)。で、電話が来た。と言っても向こうは酔っ払ってるしこっちは寝ぼけてるしで、細かいところは分からなかったけど、ともかくそれぞれに行き詰って苦しんでいるってことは、ひしひし伝わってきました。
でも、嬉しいですよね。中にはその後全く会ってないのもいるのに、そうして行き詰ったときに思い出してくれて、「ハレレ(晴佐久神父のあだ名)は運がいいから、福の神みたいに運勢を変えてよ」なんて言ってくれる。嬉しいことです。いよいよこの世で行き詰って、最後の神頼みで思い出してくれる存在だなんて、名誉じゃないですか。「このつらい現実の中でも、きっとだいじょうぶって思いたい」「昔のように、もう一度純粋に信じたい」。そんな思いと神の働きを結ぶ現場にいることを誇りに思うし、30年前に感じた召命はまさにこんな日のためだったのかもしれないとさえ思った。で、「ちゃんと厄払いしてやるから、明日来い」って言ったらみんな「行く、行く」と言い出して、本当に今晩みんな来るんですよ、ここに(笑)。
この行き詰った気持ちをわかってくれるはずっていう彼らの信頼感と、30年ぶりであれ、わかってあげたいっていうこちらの気持ちがつながれば、それが厄払いでしょう。人と人の心が通じる瞬間、その共感の力で世界は変わるんだから。倒れている人の心と、このサマリア人の心がつながった瞬間、神の国が実現したのです。今日この後、台風の進路次第ですけど、みんな来れたら「そうか、大変だったね」「うん、その気持ちわかるよ」と、やっぱり言ってあげたいと思う。

台風って言えば、今回もやっぱり死者が出ました。ひとことで「死者」と言っても、その一人ひとりに辛い現実があることはなかなかリアルに感じ取れません。テレビで誰かが「台風の中、わざわざ田んぼを見に行かなきゃいいのに」とか言ってました。自己責任と言われればそれまでですけど、その人にとっては、田んぼは命より大事だったわけでしょ? どんな思いで見に行って、洪水の田んぼにどんなにショックを受け、何をしようとして用水路に流されたか。コメントする前に、まずはその現実の心につながりたい。川に落ちたボールを拾おうとして流された子どものニュースも流れました。「たかがボールで」と言うのは簡単だけど、その子にとっては大事な大事な、決して失くせないボールだったはず。どんな思いで追いかけて、どれほど必死に拾おうとしたか。他人事ではなく、まずはその心をリアルに受け止めたい。そういうリアル感がないと心が動かないし、心が動かないなら、その子はいないも同然なのです。ニュースが変われば、もう思い出しもしない。
 大祭司は、そこに倒れている人を、目で見ています。「追いはぎに襲われた人だ」と、頭で理解もしています。けれど、道の向こう側を通っていってしまう。これ、仕方がないことなんです。目で見て頭で理解しても、心が動かなかったんだから。心が動かなければ体も動きません。でも、もしも心が動くなら、体も動き、歴史が動いていく。本当に一瞬のことなんですよ。心が動く瞬間って。それで災害地にボランティアに駆けつける人もいるし、こんな悲惨な現実を救うために生涯働きたいなんて決心する人だっている。共感が世界を動かしています。本当に世界を救うのは、この一瞬の愛しかないわけでしょう? どれだけ豊かになったって便利になったって、愛がなければ無に等しいのです。

 第二朗読で、「神は、御子によって天地万物を御自分と和解させられた」と読まれました。神は、神から離れてしまった天地万物をキリストによってご自分と和解させる。なぜキリストがそうできるのかっていうと、キリストとは、神の万物への共感だからです。苦しんでいる万物に対する、神の愛だからです。万物はその神の愛を知らずに苦しんでいるけれども、キリストが双方の真ん中で結び合わせる。一言で言えば、神がみんなに「その気持ち、わかるよ」と言っている。「その苦しみを、わがこととして感じているよ」と、神が心を動かす。神の心が動けば宇宙の歴史が動く。イエス・キリストの意味っていうのは、そこにあるわけでしょ?
 わたしたちキリスト者が、その一瞬に「ああ、辛かったんだね」「その気持ちわかるよ、何とかしてあげたい」と共感して、体が少しでも動くなら、歴史が大きく動いていく。愛が世界を作るってそういうことじゃないでしょうか。

 サンチャゴ巡礼から、ついに帰って来ましたねえ。いつかお話した彼が、無事に帰って来ました。このミサに出ています。わたし、成田まで迎えに行ったんですよ。朝早く。だけどいくら待っても出てこない。ああ、やっぱり水ぼうそうか(笑)、と思ったら、チケットには7月9日成田ってあっても、それはパリの7月9日で、日本では10日の朝なんですね(笑)。翌日、ちゃんと帰って来ました。彼も、ぼくが迎えに来てるだろうと思ってたそうです。成田に迎えに行きたいっていう、あの日のぼくの水ぼうそうの説教をインターネットでちゃんと読んでたので。(笑)
まあ、無事でなによりですけど、サンチャゴ巡礼って、やっぱりすごい体験ですよ。一言で言うなら、「真の共感体験」なんでしょうね。そもそも人生という旅路自体、共感して助け合うとか、一緒に生きる仲間を大切にするとか、迎え入れてもてなすとか、そういう共感体験そのものであるはずです。でも、みんなその本質に全然気づいていないから、それに目覚めるために巡礼路を歩くんでしょう。彼も言ってました。「そのへんでなんとなく生きていてもわからないことが、あの巡礼の道を歩けばすべてわかる」。それは事実です。もちろん、スペインの巡礼路を生涯歩くわけにはいきませんし、その必要もない。私たちは人生という巡礼路を歩いているんであって、そこを一緒に歩いている仲間だからこそわかる共感が尊いし、人生の旅路にあってふと心が動く、その一瞬を大事にすべき。
 彼が言ってました。巡礼路に雨が何日も続くと、もう景色も何も関係なく、ただ足元だけ見つめて無心に歩き続けるしかない、と。でも、それ言うなら、人生を歩いている人、みんな同じじゃないですか。ザンザンと試練の雨降る中、なんでこんなとこ歩かなきゃなんないのか、いつまでこんな人生なのか、この苦しみに何の意味があるのか、そんなことを思いながら必死に歩き続けているじゃないですか。
そんなとき、一緒に歩いている仲間がいて、そんな気持ちを共有し共感してくれたらどんなに安心でしょう。迎え入れてくれる宿があって、そんな状況をわかっていてもてなしてくれて、励まして送り出してくれたらどんなに癒されるでしょう。「あれ? もしかすると、この共感の瞬間のために人生があるのかな」って気がつくんじゃないですか? たぶん、歩いていることそのものには、殆ど意味がないんですよ、きっと。ただ、共に歩くことで、共感し合える。そこに意味があるんじゃないか。イエスが私たちと共に歩いてくれたのは、そのためです。共感のキリストになるためです。共感して、心を動かして、歴史をつくるためです。

 昨日の夜の入門講座に、初めて来たっていう人がいました。初めてって人がいると、やっぱり嬉しいですし、いつにもまして燃えるんですよね。よし、この人のために話そう、と。一期一会かもしれないですしね。なぜ来たのかとか、まだその人のことは何も知りませんけど、少なくともその人に今、共感のキリストが「その気持ち、わかるよ」って言いたいわけですから、それだけはちゃんと伝えたいと思ってその人を迎える。これ、入門講座の鉄則なんだろうと思うんですけど。
 そんなわけでまあ、精一杯心をこめてお話しました。で、その後、少しワインでも飲みましょうかと声をかけたら喜んでくれて、お茶の間で入門講座の仲間たちみんなで、ちょっとした宴になりました。その方がそこで打ち明けてくれたんですけど、なんと5日前にお母様が亡くなったって言うんですよ。
その方は信者ではないんですけど、カトリック新聞を読んでいて、一年以上前の晴佐久神父の福音解説を切り取っていつも持っていると言って、見せてくれました。線がいっぱい引いてありました。その日の解説は、私が病気の方を訪ねて行って、「私はキリストとひとつです。もうだいじょうぶ、今日ここに、救いが訪れました」と、キリストの福音を宣言したときの事を書いたものです。おそらく、病気の母親を抱えている身として、それがすごく励ましになったんでしょう。そのお母様が亡くなって、本当に辛くて虚無感にとらわれて、家から出られないでいたときに、突然、「そうだ、この神父の教会に行こう」と思いついて、思い切ってやって来たっていうんです。そんな話を聞けば、当然心が動きます。「わたしも去年、母を亡くしました」という話をして、お互い「わかるよ」っていう共感の気持ちで結ばれました。同じ巡礼の旅路で、同じ巡礼の苦しみを体験している仲間。そんな共感の時間は、なによりの癒しと励ましの時間になったはずです。
 話していると、その方は、お母様にもっとこうしてあげれば良かったとか、あの時別の病院に変えてあげれば良かったとか、もっと早く気がついてあげることもできたのにとか、そういう後悔の思いでいっぱいなんですよ。当たり前ですよね。その後悔、ほんとによく分かります。だけど、話を聞いてみると部屋に機械持ち込んで在宅ホスピスまでやってる。はたから見ても精一杯のことしてる。だから、こう申しあげました。人には限界があって、あなたは精一杯のことをしたんだから、天の栄光に包まれているお母様は、ちゃんとすべてわかった上で、「だいじょうぶよ、あなたは最高の事をしてくれたわ」って息子に言ってくれてますよ、と。
 もっとも、そういう言葉っていうのは、受け入れるのに時間がかかります。まだ5日ですからね。大事なことはまず何をおいても、「わかるよ」っていう共感でしょう。昨夜は、自分の弱さや失敗で最愛の母を苦しませたんじゃないかと思っているその気持ち、それ、わかるよ、すごくわかるよっていう共感の時間を過ごしました。多分、キリストの教会がなすべきことはほぼ全てこれだろうと思います。
 今、この聖堂で、イエス・キリストが何をしているかというと、皆さん全員に「わかるよ」って言ってくれているのです。「つらかったね」と。ミサっていうのはそういうものです。神がどうしてもしたかったのは、キリストによる、神の子たちとの共感。それが共に響きあうこのミサで実現しています。だから、わたしたちは、その「わかるよ」っていう一言を誰かに言うために、このミサから派遣されるのです。それは難しいことじゃない。第一朗読にありました。「御言葉はあなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる」。
 御言葉はもうみなさんの口と心にあります。だから、それを行うことができる。

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