晴佐久昌英神父説教
2007年7月29日
年間第17主日(C)
福音朗読
ルカ 11:1−13
<希望の四葉のクローバー>
「求めなさい、そうすれば与えられる」。とは言っても、求めたのに与えられなかったという体験もありますでしょう、おそらく。でも、どうなんでしょう、そのとき、本当に信頼して求めたんでしょうか? あるいは、本当に与えられなかったんでしょうか? いやいや、私は本当に信頼して求めたし、それでも与えられなかったと言うかもしれませんが、どうなんでしょう、その時の信頼とは、何をどう信頼したんでしょう。与えられなかったというのは、何が与えられなかったのでしょう。
昨夜のミサの後で、ある方が「私は祈りを聞き入れられなかったことはない」と言いました。「自分が本気で祈ると必ず神は聞いてくださるんだ」と。ちょっとびっくりしましたけれど、現にイラク戦争で自衛隊が派遣されたときも、「自衛隊員が一人も死なないようにと本気で願ったら、叶った」と言うんです。それが尊い祈りであることは間違いありませんが、少し気になりました。もしも仮に、そのとき自衛隊員に死者が出たとしたら、この方はどう思うんだろう、と。ああ、自分の祈りが本物ではなかったと思うんでしょうか。それとも、本当に信頼して祈ったのに、神は聞いてくださらなかったと思うんでしょうか。「今も、アフガニスタンで拉致された韓国人のグループが全員無事に戻ってきますようにと祈っているんです」と言うので、拉致事件をただ悲観的に受け止めていた自分を恥じましたけれど、この世を生きていく上ではほとんどの人が、本気で求めたのに与えられなかったという体験をしているのは事実です。そして実は、その「求めたのに与えられない」と感じる出来事の中にこそ、すごく大切な真理、神と人との関わりの神秘が隠されているんじゃないでしょうか。
私も去年、母が死なないように、少なくともこれ以上悪くならないようにと、本当に本気で祈りました。でも、求めても与えられませんでした。しかし、そこで「神なんているものか」とか、「神は人を愛していない」とか言うとしたら、信仰なんて何の意味もなくなってしまう。大切なことは、神の愛を全面的に信じて、本気で求めること。そしてそれ以上に、本気で求めても与えられない時にその現実を受け入れ、実はちゃんと与えられているんだと信じること。そんな、一層深い信仰の世界へと入っていくことが大事です。
ルカの福音書では、イエスが「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」と教えているのは、そのことです。聖霊とは、神の親心。神が求める者に悪いものを与えるはずがない。だから、本気で求めて与えられたものは良いものなんだ、神の親心からあふれてくる愛の、この世における尊いしるしなんだと、ただひたすら信じるべきです。そんな時、すなわち神の思いと人の思いがピタッと重なり、神の親心と神の子の信頼がキチッとつながる瞬間にこそ、最も大切な真理が秘められているのです。
おそらくこの世界は、求めて何かを与えられること以上に、求めて神とつながることのほうに真のよろこびがあるようにつくられているのです。父なる神は、神の子が願う前から何を求めているかを知っている方です。だからまず第一にすべてを完成させてくださる親心の実現を求め、その中で個々の恵みを求めましょう。そもそも、人間一人ひとりが求めるものがすべて実現したら、この世界は、おそらく地獄のようにわがままで身勝手な世界になるはず。わたしたちは、人の願いをはるかに超えた聖霊の働きをこそ求めなければなりません。
みなさんは祈る時に、「どうせわたしの祈りなんか」とか思っていませんか? そんな思いで祈っても、それはもう祈りじゃないんですよ、きっと。「神さまはわたしの思いなんか分かってないんじゃないか。こんなことを求めているわたしを嫌ってるんじゃないか。裁いているんじゃないか」そんな恐れがあるなら、もうそれは祈りじゃない。祈りとは、神がこの私をすべて分かってくださっていて、今ここで、その神とつながっているという、全面的な安心感の中でのみ成立するものです。結果がどうであろうとも、ともかく今ここで、神の大いなる親心の中へ自らの小さな子供の心をそっと置くことが、祈りです。
ぼくは小さいころ、「おねだり」が下手でした。なぜかわからないけど、心のままに求めたりしちゃいけないというようなある種の自主規制があったんだと思う。ごく普通に「あれ買ってー」とか言えない子どもだった。だから、意を決して何か求めると、父親は「よしっ」て感じで、なんだかうれしそうでした。親子っていうのは、片方だけでは成立しません。「この子のためなら何でもする」という親心と、「この親を信じていれば幸せになれる」という子どもの信頼が重なったところに成立するわけですから、「おねだり」って結構重要です。
小学校三年か四年のころ、音楽の時間にチャイコスキーの組曲くるみ割り人形を聞いて感動し、家に帰ってから「あれ、もう一回聴けたらなー」みたいなこと言ったら、数日後にステレオが現れたことがありました。やがて、頼みもしないのに「世界の大音楽」とかいう、レコードがぎっしり入った大全集も現れた。(笑)私はそれを聞きまくってクラシックファンになりましたけど、親心ですよねえ。そんな体験の中で、「本当に信頼して求める」ということを学ぶんでしょうが、わたしたちは「まして神は」と信じるべきです。人の願いは神のよろこびであり、頼みもしないのに願い以上に応えてくれる神だと信じるべきです。
結果よりも、まずは安心して、本当に信じて求めることこそが救いです。その祈りで神と人がつながるからです。求めて、探して、たたきましょう。たたく前から自主規制することないですよ。こんな勝手なこと求めてもどうせとか言うのは、祈りじゃない。今日は参院選ですけど、ちゃんと願い求めて投票してください。神の国が来ますように、みこころが行われますように、すべての人が救われますようにと、本当に祈って投票してください。あの、投票用紙に記入するボックスのとこなんか、祈るのにちょうどいいじゃないですか。(笑)主の祈りを一回唱えて、そして信じて投票する。結果はどうであれ、その、本当に信頼して求める祈りの中にこそ、真理がある。神と人とのつながりが。
実は先週の日曜日、ここでミサ中の洗礼式をするはずだったのに、出来ませんでした。数ヶ月前から、一番前のベンチで横になってミサに与かっておられた方がいるのをご存知でしたでしょう。骨のガンで全身に痛みがあり、座っていられないという方です。入退院を繰り返す中、今まで、新興宗教をはじめ、いろんな所に救いを求めてきたんですけど、真の信仰を持てずにいた。しかし、高円寺教会の事を聞いて通うようになり、ついに「ここで本当のかみさまに出会えた、この神にすべてを委ねよう」と決心して、洗礼を望まれたのです。面接をして、来年の復活祭はどうなっているかわからないからということで、先週、洗礼を受けることにしたのです。みんなで喜んで準備しましたし、本人もほんとに喜んでいたのに、なんと前日に転んで、もう骨が弱っているので、大腿骨が折れちゃったんです。緊急入院して、洗礼式は流れてしまいました。
面接の時のあのよろこび、洗礼を心から望むその熱い思いに私も感動して、「神さまも喜んでおられますよ。」なんてお話ししたのに、前日に大腿骨骨折で、もうすぐ大手術。普通なら、かみさまはなんて意地悪なんだろう、とか言ってもよさそうな出来事でしょう。ところが、その後すぐ訪ねてみると、足の骨にボルトを突き刺して牽引されて、ベッドの上で身動き取れない状況で、彼女はこう言うんです。「すべてを受け入れます」。そして、私が「病床での洗礼式にしましょうか」と聞くと、「もう退院できなくなったなら、お願いします。でも、できるならば退院して、あの高円寺の素晴らしいミサの中で、皆さんの祈りに囲まれて洗礼を受けたい。そんな夢を持っていてもいいですか」と答えました。
もちろん、彼女も辛いですし、不安ですし、自分の中で戦っているんですよ。実際、こうも言ってました。「正直言って、『わたしは見捨てられたのかもしれない』とか、『神がお前は洗礼にふさわしくないと言ってるのかもしれない』というような思いが湧いてくるんです。今はそういう気持ちと戦ってます」と。求めても与えられない現実の中で、なおも本当に信頼することが、どれほど命がけなことか。だからこそ、どれほど尊いことか。そこが、神が聖霊を送ってくださる現場です。たぶん、そうして命がけで信頼して祈り続けるなら、「ついに与えられませんでした」ってことはありえないんじゃないか。
牽引されてベッドで身動き取れないって、ほんとに辛いですよね。だから、「明日はこのボルトを外す手術をして、動けるようになるんです」って、彼女は喜んでたんですね。足の骨に直接補助の金具をつける手術だろうと思うんですけど、そうしてつらい中でもそうしてささやかな希望を見つけてがんばってるのに、帰り際に看護婦さんがやってきて、本当に言いにくそうに、「ごめんなさい。実は、明日は心臓の緊急手術が入っちゃったので、手術を延期してもいいですか」って言ったんですよ。私、一瞬凍っちゃいました。この苦しみの中でさらにそんなこと言われて、一体なんて答えるだろうかって。
1秒間の沈黙があり、彼女は答えました。「分かりました。どうぞ気にしないでください。私より大変な方のために、手術ゆずりますから。むしろ気を遣わせちゃってごめんなさいね」と。すると看護婦さん、「ありがとう」って手を握り、感動してうるうるしながら去って行きました。でも、当然彼女はその後で、「ああ、ショック。どうしてこんなにうまくいかないのかしら」と言うわけです。ほんとに1秒の間の、尊い戦いがあるんです。でも彼女は、戦って、確かに与えられたんですよ。最高の宝、神のみこころ、聖霊を。
彼女は四葉のクローバーを見つけるのが得意なんですって。私も一枚頂きました。思うんですけど、四葉のクローバーなんて、実は結構その辺に生えてるんでしょうね。ただ、みんな気づかずに踏んづけて歩いているわけでしょう。四葉のクローバーを見つけるのが得意っていうのは、そこに必ずあるって信じるのが得意ってことなんですよ。だから、1秒で希望を見つけられる。
頂いた「希望の四葉のクローバー」は、マリア祭壇に捧げてあります。
どうか、お祈りください。夢の洗礼式が実現しますように。聖霊が注がれて、感謝と賛美が溢れる救いの日が実現しますように。
求めるならば、必ず聖霊が与えられます。信じてください。聖霊が与えられるなら、後はその聖霊が働きます。聖霊が働くなら、すべてうまくいく。
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