晴佐久昌英神父説教
2007年8月5日
年間第18主日(C)
福音朗読
ルカ 12:13‐21
<安らかに「今夜」を迎えましょう>
「今夜、お前の命は取り上げられる」と、そう言われたらそれは、今夜です。そして今夜とは、一生に一度、「今夜」しかありません。明日の夜は「明日の夜」だし、昨日の夜は「昨日の夜」なんであって、「今夜、お前の命は取り上げられる」と言われたら、それはまさに、今夜なのです。
「今夜」と言われて、ドキっとさせられます。わたしたちはいつも、きっと明日があるだろうと思い、来年はこうしようなどと計画を立てますけれども、そんなわたしたちに神は、「愚かな者よ」と言う。では、賢い者はどう言うのか。「今夜、あなたにすべてをお返ししてもかまいません。わたしは、今という時をあなたからいただいた恵みの時として、感謝と喜びのうちに精一杯生きます。この世に囚われることなくすべてをあなたにゆだね、明日を思い煩いません」と言います。
元教会委員長の納骨式を、昨日大変暑い中、墓地で行いましたけれども、そのときふと思い立って、この主日の福音を読みました。こうして元気にみんなで集まっているところで読むよりも、いっそうイエスの思いが強く迫ってくるような思いがしました。なにしろ納骨式ですから、まさにその「今夜」を迎えた方のお骨を前にして読んだのです。わたしたちも、いつかその「今夜」を迎えて永遠なる世界に入っていきます。自分のために富を積まず、神の前に豊かでありたい。
墓地にはわたしの両親の墓もあって、ついでに手を合わせてきましたけれども、わたしは正直言ってあまり墓参りとかは熱心じゃないです。どうでもいいとまでは言わないけれど、関心が薄い。納骨式とかお墓とかそれなりに工夫するのは当然ですけど、やっぱり「地上のもの」ですからね。本人は永遠の世界を生きているんだし、わたしたちは洗礼によってキリストと共に死に、キリストと共に神の世界に生まれた者であるはずです。第二朗読の言い方で言えば、「上にあるものに心を留め」ている者なのであって、「地上のもの」に囚われない者。「地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです」。
とは言っても、両親の墓の周囲の石があまりにもボロボロだったので、先日の母の納骨式に合わせて直したりしたんですけどね。それだってやがてまた壊れるんだし、実はそういうことはどうでもいいはずなんですよ、ほんとは。「地上のものに心を引かれ」ていても、ふいに「今夜」が来るんだから。
今日、皆さんの「今夜」は、どういう今夜になるでしょう。昨日の土曜日の夜のミサでもそんな説教をしました。「今夜と言うからには、本当に今夜なんだ。すべてをゆだねる覚悟で今夜を迎えよう」と。そうして一晩過ごしたわけですけど、昨日の夜のミサに出た方、どうだったんでしょうね、それぞれの「今夜」は。昨夜、神に召された方はいなかったんでしょうか。今朝になっても何の連絡もないので、多分皆さん、神の恵みによって新しい朝を迎えたんでしょう。しかし、わたしを含め、現実に召される人がいても、別に驚くことでもないでしょう。
それを、「神父が縁起でもない説教をするから、ほんとに『今夜』になってしまったじゃないか」と言うとしたら、それはおかしい。それを言うなら、このイエスのたとえ話が「縁起でもない」たとえ話なんであり、そもそも、お召しになる神が縁起悪いってことになる。それはおかしいでしょう。神はこの世に、愛をもって命を与え、愛をもって今日という日を与えているんであって、その神がご自分のみもとにお召しになることもまたすべて「みこころ」なのであって、縁起悪くもなんともない。いわば、当然のこと。地上のものに心を引かれずに、「造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、「今夜」を迎えましょう。みこころならば、「明日」をいただける。それだけのことです。
昨日姉から電話がありました。わたしの実家、母がずっと一人で住んでいたマンションが売れたそうです。売れてしまったと聞いて、なんだか寂しい気がします。実はわたし、母が亡くなったすぐ後は、この家の中のものに手を触れるな、何も捨てずにこのまま残して、「晴ママ記念館」にするんだ(笑)、なんて言ってたんですよ。そんな気持ち、わかっていただけますよね。思い出の詰まったこの家をこのまま維持して、いつでも訪ねられるようにしようと思ったんです。
だけど、現実にはそうもいかない。管理も大変だし、やがては、「もうしょうがないね」っていう話になる。で、先日兄弟3人実家に集まって、家中を見渡しながら「懐かしいねえ。さみしいねえ」なんて言い合い、それから顔見合わせて、「でもしょうがないね」ってことになりました。で、さあ片付けようったって3人とも忙しいし、一つひとつ整理してたらきりがない。「もう、こうなったら、あれが懐かしいの、これはいらないの言っててもしょうがないので、アルバムや日記くらいは持っていくとして、あとはもう、そっくり業者に」って話になり、そうと決めたらあっさりしたもので、そっくり持っていってもらいました。そういう業者がいるんですね。ぼくは立ち会えませんでしたけど、すごかったみたいですよ。身も蓋もないというか、どんな思い出の品も業者にすれば全部ゴミですから、くくって縛って放り込んで、あっけらかんと全部持ち去っちゃいました。どう思いますか? 冷たいですか? でも、皆さんも召されたらそうなるんですよ。神は言います。「お前が用意したものは、いったい誰のものになるのか」。
「地上のもの」、この世のものは、やがて消え去るのです。すべて。どんなに大切なものも。たった3ヶ月前に、典礼委員長に命じられて、水疱瘡でふうふう言いながら、せっかくパリから買ってきたあの水とブドウ酒の入れ物も、先週、もう割られてしまいました。しかも、その典礼委員長が割った。(笑)「もうかあ」と思いましたけど、いいですよ、また買ってこようじゃないですか。(笑)だけど、たとえいくつ買ってきたって、所詮「地上のもの」に、「永遠」なるものは一つもない。どんなに大事なものでも、懐かしいものでも、「せめてこれだけは」なんてものでも、すべて。どんなに大きな蔵を建てても、今夜。
でも、それって、思えばすがすがしいですよね。もういいじゃないですか、地上のものは。わたしたちの貯めこんだもの、すがってきたもの。もう仕方ないですよ。みこころの「今夜」を前にして、わたしたちにとって、神の恵みに代わるものはこの世に何ひとつないんだということを、とことん知るべきです。地上のものだけを大事にしていると、このコヘレトの言葉になるんです、第一朗読の。「なんという空しさ。なんという空しさ。すべては空しい。労苦した結果を、まったく労苦しなかった者に与えなければならないのか。一生、人の務めは痛みと悩み。夜も心は休まらない。これまた、実に空しいことだ」。それはそうですよ、地上のものだけを信じて生きているならば、空しいに決まっている。地上のものは必ず滅び、やがて「今夜」が来るんだから。
わたしたち、ここに集まっている仲間は、そんな空しさを口にしません。まあ、この世を生きているんだから虚無感を感じてしまうこともあるでしょうけれども、信仰に空しさは無縁です。そもそも、その地上に生まれる前は何も持たず、ゼロだったこのわたしが、上から恵みをいただいて、今日ここに生かされて生きている。「キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられる」と信じるわたしたちに、空しさはありません。互いに励まし合い、上にあるものだけを求めて日々を捧げていきましょう。それを信じる仲間が集められたんですから。
重いご病気でつらい思いをしている方が、今日、このミサに何人も来られてるんですよ。今日がこの聖堂でミサに与る、もしかしたら最後になっちゃうかもしれないという方もいますし、体調整えて頑張って、一年ぶりにようやくこの聖堂に来てミサに与れている方もおられます。皆さんと一緒に座ってるんですよ。そんな厳しい現実を生きる皆さんに、ここではっきりと「仲間よ」と語り掛けたいです。やがて来る「今夜」を恵みの時として迎える、そんな信仰の仲間としてです。わたしたちは、どんな試練にあっても神の恵みはもっと大きく、その神の前に豊かであれば、試練とは比較にならないほどの恵みをいただけると信じて生きる仲間なのです。この仲間たちで、今、共にミサを捧げているこの秘蹟の現実こそ、神のくださった最高の恵みだよと、そう語り掛けたいのです。
安心してください。神がお始めになったわざなんです、あなたの人生は。神が最も良いことをなさってくださるのは、当然のことです。わたしたちは、ひたすらそれを信じます。その信仰がわたしたちを救い、その信仰がミサをミサにする。
そのミサに来られない方も、今ミサに与ってますよ。先週お話しした、ここで洗礼を受けるはずだった方は、今日もこのミサの時間に合わせて、自分の痛みを捧げています。あの「希望の四つ葉のクローバー」の方です。その後さらに痛みが増し、モルヒネも効かなくなり、ほんとに痛くて痛くて、とてもつらい状況です。わたしは、どうしてあげることも出来ないけれど、仲間の祈りをひとつにして届けますねと申しあげました。みんなの祈りを届けるから、と。痛みって不思議ですよね。そのメカニズムはよくわかっていない。神秘に属することがらなんです。だから、この仲間が、本当に信じて、神のみわざを実現させる信仰として、今救いを求めているすべての人のために祈るミサを捧げるなら、きっと奇跡が起こる。ぼくらが、ぎゅっと心をひとつにして本当に祈れば、病人も「ああ、神さまが何かすばらしいことをしてくださっている」と思ってくれるはず。地上のものである痛みを越えて、上にあるものの栄光をいただけるはず。
さあ、今日のミサを、こうして最高の恵みとして生きているわたしたち。「今夜」を迎えるまで、いただいた恵みの時を喜びのうちに過ごしましょう。「どうぞ今夜、あなたのみわざを行ってください。みこころならば、また新しい朝を迎えさせてください」、そう祈って、安らかに「今夜」を迎えましょう。わたしたちの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。
「あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう」。
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