晴佐久昌英神父説教
2007年8月12日
年間第19主日(C)
福音朗読
ルカ 12:32−48

<わたしの主よ>
 イエスのたとえ話に、主人としもべのたとえがよく出てきます。言うまでもなく、しもべとは私たちのことで、主人とは神のことです。ここで大事なことは、わたしたちは本当に、神を主人と思っているかということ。イエスが言いたいのはそのことです。神が本当に主人なら、その主人に従い、その言うとおりにしなくっちゃ。そうでしょ? 言うとおりにしないしもべなんか、もはやしもべではない。この、神を本当に主人と思う感覚、信仰こそが救いなのです。

先週「ジーザスクライスト・スーパースター」というミュージカルを見たんですけれど、ご存知ですか。イエスの最後の7日間をロック・ミュージックに乗せて物語る、有名なミュージカルです。ぼくはこれを、25年ぶりに見ました。イエスと弟子たちの苦悩を時に生々しく、時に象徴的に表現している作品ですけど、その後神学や聖書学をかじったせいもあるんでしょうが、今見るとやや幼稚な解釈だなという感想です。イエスの叫びとか、ペトロやユダの苦悩とかが荒々しく表現されていて、ドラマとしてはそれなりに感動的なんだけど、ちょっと「人間イエス」を強調しすぎと言うか。
 たとえば、イエスが時にはキレちゃうんですよね。大勢の群集が「助けてくれ」と押し寄せるシーンがあって、「救ってくれ、治してくれ、癒してくれ」と詰めかけてくる。群衆に取り囲まれて、イエスも最初のうちは一人ひとり救おうと対応してるんだけど、やがて限界が来て、大声で叫ぶんです。「自分で治せ!」って。わたし、それを見ていて、これ言えたら楽だなと(笑)。司祭として結構、心の中では思ってますからね。「そんなこと、自分で考えろ!」とかね。でもまあ、それはぼくが凡人で限界があるから当然そういう叫びが起こってくるんであって、イエスにもそう叫ばせちゃうってのは、どうなんだろう。イエスの人間味を強調して身近に感じさせようという意図はわかるんだけど、イエスは実際にそんなこと言っただろうか。我々と同じところもあるけれど、完全に超越し、神と直結しているところがあるからこそ救い主であるはず。その意味では、自分が信じているイエス・キリスト像を問われているようにも感じさせられた。
 ぼくは、イエスは神の愛の完全なる現われだと信じています。「自分で治せ」なんて、口が裂けても言わなかっただろうと、信じています。25年前に見たときは神学生でしたけれど、悩んでいたしキリスト教を疑う闇の中にいましたから、人間的なこのミュージカルに親しみを感じたのも今は懐かしい思い出。人間の弱さをとことん知った今はむしろ、イエスの神性にこそ親しみと信頼を感じます。
 だから、今回すごく印象に残ったのは、叫んでいるイエスよりも、裏切ったペトロを何も言わずじっと見る眼差しや、今裏切ろうとしているユダをじっと見つめる眼差しです。その眼差しに、神を感じたから。それは、この弱いわたしを見つめる神の眼差しだから。それは25年前には全然気づかなかった感覚でした。ぼくは今は、そのまなざしに向かって「わたしの主よ」と言える。それはやっぱりうれしいことです。主人としもべの関係です。遠い昔の物語の人物ではなくて、「わたしの主」。これが信仰でしょ。あの疑り深いトマスにイエスが現れて、くぎ跡を見せて、「ここに指入れなさい」って言ったら、彼はその場にひれ伏して言いました。「わたしの主、わたしの神よ」。これが、信仰です。その時初めて、トマスと主はつながった。「あなたとわたし」という現実の、そして永遠の関係になった。わたしの主よ、あなたを信じます。あなたに従います。この、イエスに「わたしの主よ」と宣言する感覚なしに、信仰は成立しません。
 今回、ひとりの神学生と一緒に見に行ったんですけれど、帰り道々「どうだった? 今のミュージカル見て」と聞いたら、こう答えました。「イエス様が、十字架を背負ってるとき、お前のために背負っているよと言われているような気がした」。これはキリスト教です。抽象的なイメージではなく、「わたしとあなた」の関係。人類の救いのためとかなんとかいう以前に、「おまえのため」に背負ったという主。すごい主人ですよね。だから、ぼくらはあなたを信じますと言う。

 現代社会は、圧倒的に主人になりたがっている世界です。みんな自分が主人になりたい。だれだって支配されたり、管理されたりするのはいやですから、なんでも自由にできる主人になりたい。
 しかし、この世でどれだけ自由な主人になったとしても、そこには必ず限界があって、苦しみのタネはつきることがない。そんな主人よりも、もっと自由でうれしいのは、天地の創造主、全能の神である父のしもべになること。この世の主人は、主人であり続けるために大変な労力を要するし、どのみち本当の主人になんかなれっこないから、やがてはキレたりするわけですよね。そこに真のよろこびはありません。真のよろこびを知りたかったら、しもべにならなくちゃ。「わたしの主よ」と言って、主人のよろこびに仕えなくちゃ。主人が一番してほしいことを先回りして考えて、主人のよろこびとなる。そんなしもべならば、主人の方がしもべのように給仕してくれて、さらには全財産を任せると。このイエスの給仕の姿は、あの十字架に極まるわけですけど、そのようにしもべのために命を捨ててくれる主人をこそ信じたい。しもべの幸せのために何でもする主人。最高の主人でしょう? この主人に仕えましょうよ。それこそが、最高の幸せなはず。目の前にこうして十字架を掲げていますけども、皆さんにとってイエス・キリストは主人ですか? 「わたし」が主人になってしまっては、そこによろこびはありません。

 うれしい報告があります。ちょうど一年前の夏、ミサのお知らせで紹介しましたけれども、カナダの大学に留学している女性が、大学院で宗教学の博士号を取るために、日本の宗教の実態を調査しに、日本に帰って来たんですね。その彼女が選んだテーマが、日本のカトリック教会。こういう研究のためには文化人類学的な方法が必要で、フィールドワークって言うんですけど、その研究対象の中に入り込んで調査するわけです。で、どこでどう話を聞いたのかは知りませんが、カトリック高円寺教会に興味があるとやってきて、教会委員会の許可を得て、この教会で一年間研究調査をしました。その後親しくなった方はご存知でしょうけれど、彼女はここの毎週のミサをはじめ、入門講座や信者講座、そのほかさまざまな活動グループに関わり、全部身をもって体験し、調査しました。日本におけるカトリックっていうものを調査したわけですよね。
 で、わたし、最初に見知らぬその彼女がお願いに来たときに言いました。「いいですよ。どうぞ。お好きなように。でも、そんなことしてると、あなたも洗礼受けちゃいますよ。いいんですか?」。(笑)すると、「いえ、ご心配なく、大丈夫です。担当の教授からも、ミイラ取りがミイラになることがないようにって厳しく指導を受けてますから」って答えた。それからちょうど一年経ちました。
 彼女はカナダに帰ることになったわけですけど、ぼくは実を言うとこの一年、彼女がミサの説教を熱心に聞いていたり、入門講座でメモを取ったりにしているのを見るたびに、ちょっと複雑な気持ちだったんです。だって、向こうは学問的に司祭の話や教会の活動を見てるわけでしょ。いわば客観的に。それに対して、こっちはもうそれこそ「わたしの主よ。わたしの神よ」っていう世界ですから、主観的にまごころから告白して、現実の人生として生きてるわけですよね。そうすると、「彼女の目に、このようなわたし、このような教会はどう映るんだろう。学問的にどう評価されて、客観的にどう書かれるんだろう」とかって、そこはやっぱり気になるじゃないですか。英語論文だからどうせ読めないんですけど(笑)。よもやその論文に、「あれは特殊な社会現象で、集団ヒステリーの一種である」とは書かないだろうけど、やっぱり真剣にこの教会に関わった一人の人間ですからねえ。いかに向こうが学問的とは言え、その人と一年間精一杯向かい合ったのに、その学問を超える福音を何ひとつ与えられなかったらなんだか寂しい話しだよなあって思ってた。でもまあ、この夏でお別れ、ということで。
 ところがですね、先週の日曜日、最後のミサということで彼女が来てたんですけど、聖体拝領のときに手を出すんですよ。いつもは祝福を受けるために頭を下げてたんですけど、先週は堂々と手を出した。わたし、「あれ?」って思って、すぐに、「さては受けたな!」(笑)って思い、「おめでとう」っていう気持ちでその手にご聖体を載せました。ミサの後、挨拶に来て、「高円寺は復活祭しか洗礼式がないので、先週イグナチオ教会で洗礼受けました」(笑)と。カナダに帰る前にどうしても受けて帰りたかったそうです。みんなに祝福されて嬉しそうでしたよ。福音に触れ、キリストに触れ、秘蹟に触れたものは、「わたしの主よ」と告白し、主人のよろこびとなるのです。
 この世の学問もすごく尊いと思うし、わたしもその学問で信仰を養ってきたつもりです。でも、どこかこう学問って、自分が理解する、自分が論文にまとめると、結構支配的ですよね。自分が主人になるっていう感じがある。その世界から、ただひたすら、「わたしの主、わたしの神よ」と頭を下げる世界へ。それは、ほんとに天地ほど違います。わたしたちにとってのまことの主、その方がわたしたちをここに集め、救ってくださる。わたしたちはしもべだから、そのすばらしい主に全面的に信頼して、「あなたがほんとに主ならば、わたしたちの主であるならば、わたしを護ってください。わたしを救ってください。わたしはあなたのしもべです」と、頭を下げます。
 ミサの中で、しょっちゅう、「わたしたちの主」、「わたしたちの主」って繰り返しますけども、イエスから「わたしが主だ」という呼びかけを受けた今日、心をこめて「わたしたちの主、イエス・キリスト」と、信仰を告白しましょう。それは、本物の主に、本当に頭を下げるという、究極のよろこびを主ご自身が与えてくださっているという、そういうことです。第二朗読のアブラハムのように、目に見えないものを確認し、全面的に天地の創造主を信じて、頭を下げる、そのよろこび。
 わたしたちの主、イエス・キリストによって。アーメン。

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