晴佐久昌英神父説教
2007年9月16日
年間第24主日(C)
福音朗読
ルカ 15:1-10
<こんなわたしを捧げるとき>
先週は、わたしのかわいい子供たち、と言わせてください、神学生たちが次々と会いにやって参りました。もう神学校も始まりますし、わたしは半年いなくなりますし、その前に話を聞きたい、聞いて欲しいと、会いにきてくれました。やっぱり、慕って来てくれるのは嬉しいです。三人来ましたよ、順番に。当教会出身のP神学生とO神学生、そしてこの春まで手伝ってくれたK神学生。三人合わせてわたしはPKOと呼んでます。(笑)平和維持活動ですね。彼らと、自分の信じている事を語り合ったり、それが彼らのよろこびや励ましになったりするという体験は、わたしにとっても特別に大切な体験です。
面白いことにというか、三人ともほぼ同じような悩みというか囚われを抱えていて、一言で言うと「こんな自分でいいんだろうか」というような思いです。自信のなさというか劣等感と言うか、この自分でいいのか、こんな自分でも大丈夫なのか、そういう、つまりは恐れですねえ。恐れ。確かにわたしも神学生の時はそんな恐れを抱えていました。勢いで飛び込んだはいいけど、神学生ともなると立派な人たちに会う機会も多いわけですよ。信仰厚い人、熱心に活動している人、才能豊かな人、そして、教会の歴史にキラ星のごとく輝いているすばらしい先輩たち。やっぱりプレッシャーですよね。ああ、到底かなわない、こんな自分はお呼びじゃない、などと思うのは、当然です。
そういう思いに対して、その意味ではわたしはまことに役に立つと思う。わたしも、そういう恐れと常に向かい合ってきたし、そして今、その恐れを乗り越える最高の恵みを頂いているから。一言でいえば、「そんなわたしを神は選んだ」という信仰です。そんなあなたを神は愛している。そんなあなた「だから」特別の意味があり、そんなあなた「こそ」神のよろこびであり、そんなあなた「でなければ」役に立たないとさえ言えるということ。わたしは、神からそのように認められ、受け入れられて、今日もここに立っている。だから君も大丈夫だと、言えるのです。先週はそう言って、PKOを励ましました。
でもこれは、みなさんにとっても全く同じことです。ここにいる全員が、たぶん同じ恐れを持っているはず。自分が大嫌いという人もいれば、ずっとコンプレックスを引きずっている人もいれば、みんなそれぞれです。ミサにいながら、こんな自分がここにいていいんだろうかと思うことさえある。周りの人はみんな立派な信者のように思えたり。全くの勘違いです。実は周りの人もみんな劣等意識を抱え、こんなわたしでいいのかって思ってるんです。あなたの隣に座ってる人に聞いてみてください。みんなそう思ってる。
その一人ひとりを、神さまがどうしても望んで必要としたから、わたし達はここにいるのです。ここにいる誰一人として、いなくていいという人はいない。むしろ、「こんなわたしが神のよろこびである」、そう信じるべき。その時、人はそんなわたしのままで遣わされ、時に大勢の人を救うことすらできるのです。
第二朗読でパウロが言っていたその気持ちは、痛いほど分かる。こんなわたしを神が選び、救ってくださった。そして遣わしてくださったという気持ち。それは当然そうでしょうね。自分で言っているとおり、神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者だったんだから。実際にキリスト者を殺していたんですよ。他の使徒や弟子に、顔も向けられないはず。そんな彼がおめおめと「もう回心しました。仲間にしてください」と言い、受け入れてもらったところで、決してこの思いは消えなかったでしょう。「こんなわたしでいいのか」と。
しかし、その恐れを越えた時に、パウロは一転して他の誰よりも「こんなわたしを神が選んだ。こんなわたしこそが神のよろこびだ」という確信に飛躍するわけです。その確信は半端じゃないはず。殺される時のステファノの顔なんか絶対忘れてないわけですよ、目の前で殺したんだから。そんな記憶を背負い、過去の罪、暴力を背負って、しかしそれを乗り越えた時に、神が働きます。
最も神から遠い者を、神が選んでご自分の役に立てる。つまり、闇が深ければ深いほど、神の栄光は輝くのです。皆さんの闇も深ければ深いほど、救いの光は一層輝くと思ってほしいし、そのような恐れに囚われていた人が、その恐れに打ち勝って「わたしは神のよろこびだ」と思えたとき、世界は変わります。
イエスの周りには、徴税人や罪びとが「こんなわたしでも救われるんですか」と言って集まってきたわけです。立派な律法学者とか祭司たちとか、きらびやかな人たちを見上げながら、「こんなわたしが存在していてもいいんだろうか」とまで思っている人たち。その人たちに、イエスは「あなたたちこそ神に選ばれ、神に愛され、神のよろこびである者だ。その神の愛を受け入れなさい」と宣言したわけです。そして彼らは、それを信じた。そこには大きなよろこびがあふれ、それは神のよろこびと繋がっている。そんな集まりに対して、ファリサイ派や律法学者が横槍を入れてくるから、イエスは「あなたたちにはこのよろこびが分からないのか」と言いたいのです。
このように、こんなわたしが神のよろこびだという福音を宣言するのは、イエスであり、教会であり、ミサであり、こういう説教であり、救われた皆さん自身です。「こんなわたしが救われた」。「そんなあなたも救われる」と。
昨日来られた方はご病気で、医者から治る確率は5パーセントといわれた方です。信者ではない方ですが、信者のご家族が洗礼を勧めたけれど、今はそういう気持ちではないということで、それならせめて神父の話を聞いて欲しいと言われてきたというご事情の方でした。話を聞くと、ごく普通の男性ですから、ごく普通の日本人的な宗教観を持っているわけです。「世界の根本に何か偉大な力があるとは思うけれど、それを神と呼ぶほどの実感はない。死が怖くないといえば嘘になるが、どのみち人は死ぬんだし、あきらめるしかない。宗教を必要とする人がいるのは分かるし、他人の信心をとやかく言うつもりもないが、どの宗教も本質は違わないと思うし、自分としてはいまさら特定の宗教にすがる気はない」と、そうおっしゃった。そういう方に福音宣言をするとは、どういうことだと思いますか? そこで客観的な教義を話しても意味がない。
わたしはその方とささやかな信頼関係を作るために、自分もかつて病気で恐れたことや、信仰の闇を抱えていたときのことを話しました。その上で、そんな自分に神が、キリストの教会の恵みの中で「おまえを愛している」と語りかけてくれたこと、その宣言によって救われたよろこびを語り、あなたにもどうしてもそれを宣言しないではいられないと伝えました。つまり、今、神が、どうしてもあなたにご自分の愛を語りたくて、わたしを通して働いているのであって、あなたを説得しようとか、どちらが正しいか議論しようとかそういうことではない。人格的な神が、わが子であるあなたを愛し、ご自分の元、永遠の命の世界に招き入れようとして、あらゆる恵みを注いでいるのだとお話しました。
この、人格的な神と人の繋がりというのを、みなさんの信仰の基本として、しっかりと心に刻み付けていただきたいと思います。抽象的な観念や理論の話じゃない。神がわたしに話しかけている。神があなたに、愛を伝えている。
百匹の羊の中の一匹がいなくなる。当時はすべての羊に名前を付けていたそうですから、羊飼いは名前を呼ぶわけですよね。百匹の中のどれか一匹じゃないんです。この世にただ一匹の、かけがえのないその名前を呼びながら探し回る羊飼い。こんなわたしも、そんなあなたも、神にとってはどうしてもなくてはならない尊い存在である。イエスはそのことを宣言しているのです。
昨日も、この箇所を読みました。市ヶ谷の癒しのミサで。最近は参加者が増えてきました。特に心の病を抱えている人たちが大勢来ています。そんなミサで、一匹の羊を探し出すイエス、一人も見捨てない神の愛について語るのは大きなよろこびです。それを聞くのも大きなよろこびです。そうして大きなよろこびがそこにあることが、神のよろこびにもなっている。そういうミサで福音を宣言できて、すごく幸せでした。
幸せだったんですけど、ミサが終わった後に一人の青年がやってきました。癒しのミサにどうしても連れて来たくて、脳梗塞で動けなくなった車椅子の父と看護する母を乗せて、ワゴン車で千葉県の遠いところからやってきたけれども、ものすごい渋滞で3時間かかってミサに間に合わなかった。ようやく今着いて、近くのコインパーキングに車を入れたところだけれど、ぜひ神父様に差し上げたいものがあったので、両親を車に残して自分だけそれを渡しに来た。今日はもうあきらめて帰りますって言うんですよ。
わたしも委員会があってすぐ帰らなければならなかったんですけど、考えて見てください、「見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか」って読んだばかりですよ。「その一匹を見つけた!」って気持ちになるじゃないですか。「すぐにご両親を連れてきてください。もう一度やりますから」と言って、車椅子のお父様を連れてきてもらい、みことばの祭儀と聖体拝領という集会祭儀をいたしました。スタッフみんなでもう一度聖堂を準備し、祭壇を用意してろうそくを灯し、まだ帰ってなかった人たちにもう一度集ってもらい、入祭の歌からやりました。そして、聖書のこの箇所を読んだのです。説教で「あなたがたが今日ここに来て、こうしてご聖体を戴くことを、神さまがどれほど喜んでいるか」と話したら、親子三人、ぽろぽろ涙こぼして喜んでくれました。お父様は物を飲み込むのも大変なご様子でしたけど、美しい聖体拝領でした。
これこそは、キリストの教会のわざです。千葉から三時間、奥様が「夫がこんなに長い時間車に乗ったのは倒れてから初めてです」と言ってました。大変な思いもしたでしょう。トイレのことなどもありますし。そういう方を、イエスが捜し出す。「そんなあなたこそ神のよろこびなんだ」という信仰が、教会の命です。もしもわたしたちが「そんなあなたはお呼びでない」と言ったり、「こんなわたしは恵みにふさわしくありません。遅れてきたからわたしのせいです」と去ってしまったら、なんて悲しいことか。大きな天のよろこびが消えてしまう。でも、わたし達は、いつもそういうことをしています。神が手を広げて「あなたを愛している」と言っているのに、「こんなわたしでいいのか」と恐れている。
そんなあなたを待っている、天のミサを信じましょう。恐れを越えて、こんなわたしを捧げるとき、わたしたちは目に見えないミサを捧げているのです。
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